広い水面は余す事なく青空を映し出す事で庭園の魅力をより濃いものへと導こうとしています。池の面積が全体の70%近くを占める水の庭園。
岡山県津山市の衆楽園(しゅうらくえん)です。津山市は中国地方最大の津山盆地に市街地を形成しており、盆地とその周辺の台地や谷あいには大小250ほどのため池が点在し、更に中心市街に吉井川、宮川、加茂川が流れると言う水に囲まれた町です。
その水を最大限に活かし、美しい景観を見せてくれる代表的な場所が衆楽園と言えます。
しかし、一方でこの水は津山にとってマイナスとなる事もあります。
中国産地の急峻な山々を抜けて流れて来る水は津山盆地に入るとその速度を緩めます。そして速度を緩めたまま岡山平野へと流れて行きます。この水の緩急の差が災いをもたす原因となります。
津山盆地に入る水量と出る水量のバランスが悪い為、大雨になると逃げ場を失った水が津山盆地を巨大な水溜りのような状態にしてしまうのです。
かつてこの状況に手を打った人物がいます。
誰なのでしょうか?
戦国時代に生きた武将で津山藩初代藩主の森忠政(もりただまさ)です。
忠政が藩主となり城下町を築いた際に力を注いだ事業の一つが吉井川の治水事業でした。
忠政が始めた護岸工事は第2代藩主の森長継(もりながつぐ)に引き継がれ長継の代に城下全域の築堤が完成しました。
この長継の指示によって造られたのが衆楽園です。
もしかしたら、水に悩まされた事から水との調和を望んで衆楽園を水の豊かな庭園にしたのかもしれません。
ちなみに、津山市内にある塩手池公園は長継によって築造され、現在も灌漑用のため池として岡山県最大の貯水量145万トンを誇っています。やはり水との調和を望んでいたのでしょうか。
衆楽園は長継が明暦年間(1655年〜1658年)に津山藩別邸庭園として小堀遠州流(こぼりえんしゅうりゅう)の造園師を招いて築庭させた池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の大名庭園で、京都の仙洞御所(せんとうごじょ)を模したものとされています。津山藩では防備上、津山城内に他藩の使者を入れず、ここで応対していたことから「御対面所」と呼ばれていました。
庭園には北の中国山地を借景とし、南北に長い池に四つの島が施されています。古い建物は現存していませんが、それらを再現した余芳閣(よほうかく)・迎賓館・風月軒(ふうげつけん)など風情のある建物が当時の面影を創り出しています。↑余芳閣・迎賓館(写真左側手前=余芳閣、写真右側奥=迎賓館)↑迎賓館↑風月軒
また、庭石や灯籠といった人工物は少なく自然と一体化している事もこの庭園の特徴と言えます。
そして驚く事に、この優雅な庭園は無料で開放されています。津山方面に足を運ぶ際は是非寄ってみて下さいね。ところで衆楽園と言う名称は明治時代になってから付けられた名称です。
津山藩は途中、森氏にかわって松平氏に引き継がれています。1870年(明治3年)、時の藩主であり津山藩最後の藩主となった松平慶倫(まつだいらよしとも)が「衆楽園」と命名し、公園として一般に公開したと言う事です。
「曲水の宴(きょくすいのうたげ)」とは小川のある庭園などで流れの淵に出席者が座り、上流から流れてくる盃が前を通り過ぎる前に各々が筆を執り、詩歌を順番に詠んでいくという古来の遊びです。
衆楽園と名の付いた同じ年、松平慶倫の世子・康倫(やすとも)によって、園内で曲水の宴が催されました。
そして時は流れ現代。
衆楽園では1996年(平成8年)から毎年春に行われる津山さくらまつりの行事の一貫として曲水の宴が催され、津山の春の風物詩として定着しています。
津山藩の藩主の治水事業から始まった水との関わりは今も尚、津山の町に引き継がれていると言えます。
水は生き物にとってなくてはならないものです。しかしその水は時に猛威を奮います。水と調和した衆楽園に訪れた際は、津山藩の歴史を通して水との付き合い方も学んで頂けたらと思います。
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