大きな川の流れは様々な機縁を運んで来ます。
それは慣習的なもの、文化的なもの、あるいは人生の分岐点のようなものだったりします。
この人の人生も川の流れが変えたと言えるかもしれません。
江戸幕府三代目将軍・徳川家光の弟・徳川忠長です。
幼少の頃、病弱で容姿が劣っていた兄・家光に対し、弟の忠長は知的で眉目秀麗だった為、両親の愛情は忠長に偏ったと言われています。
この事から、家臣の間でもお世継ぎは忠長と言う声も上がっていました。
しかし、家光の乳母であるお福(後の春日局)は、それを阻む為に画策しました。
家光の祖父にあたる徳川家康に直訴したのです。
これに応えた家康は孫である家光・忠長の2人に会いました。その時、家光にお菓子を与える為に側へ来るよう呼びます。この時、忠長も一緒に寄って来たのですが家康は一喝しました。最初に兄の家光にお菓子を与えた後に忠長に与えたのです。
兄と弟の序列が明確なものになった瞬間です。
これが決定打となり家光の世継ぎが確実になったと言われています。
忠長の人生の歯車はこの頃から徐々に狂い始め、最終的には28歳の若さで自害しました。
その原因の一つが大井川にあります。↑大井川
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」
江戸時代、大井川が増水すると川越が禁止され、旅人は川を渡る事が出来なくなりました。長雨になると1ヶ月近く足止めされる事もあったと言います。
大井川の川岸にあった宿場ではこのような旅人が滞在する事により、滞在費や遊興費が落ちる為、宿場は潤い大いに賑わっていたと言います。
その宿場とは東海道五十三次の23番目の島田宿(静岡県島田市)です。
島田宿は現在「島田宿大井川川越遺跡(しまだしゅくおおいがわかわごしいせき)」として当時の面影を今も残す国指定の史跡となり、島田市博物館を起点に様々な文化や慣習を垣間見せてくれます。↑島田宿大井川川越遺跡↑島田市博物館(本館)↑島田市博物館(分館)
当時、旅人が大井川を渡るためには、川札(川越人足一人を雇うために札一枚が必要)を川会所で買い、川越人足に手渡してから、肩車や連台に乗り、川を渡りました。↑川会所↑番宿(川越人足の詰所。川越人足は一から十までの組に分けられ、各番宿にて待機していた)↑札場(人足の川札を回収し、札場で現金に替えて人足たちに賃金として分配していた)
料金は肩車と連台で異なり、連台も担ぐ人数や乗る人数などに加え増水による川幅や水深によっても異なっていました。↑蓮台(川会所展示品)
現代には無い川越制度と言う一つの慣習が成立していたわけです。
人が集まれば新たな文化も生まれます。
島田髷(しまだまげ)もその一つでしょう。↑島田髷(島田市博物館展示品)
発祥については諸説ありますがその一つが島田宿に由来するものです。
島田髷は当時人気絶頂の若衆歌舞伎の美少年が結っていた若衆髷(わかしゅまげ)を、島田宿の遊女が取り入れた事が始まりとされています。その後、町娘などにも広がり全国的に大流行したと言う事です。
人が集まり往来する島田宿だからこそ全国に広がったと推測出来ますね。↑川越のモニュメント
さて、島田宿が栄えた理由は旅人が川を渡れず足止めさせられた事が大きな要因です。
なぜ橋を架けなかったのでしょうか?
その理由は橋を架けられる技術が無かった為。軍事的・政治的な目的の為。あるいは川越制度による既得権益を守りたい人がいた為。などが挙げられます。
忠長の話しの続きです。
家康の一件以来、父や兄を喜ばせようとする忠長の行動は幾度となく表面化しました。しかし、それは次第に疎まれるようになり、ある行動が忠長を自害へと導く一因となりました。
大井川の架橋です。
駿河の領地を治めていた忠長は将軍となった家光が京へ上洛する事になった際に無断で大井川に浮橋(船橋)を架けてしまったのです。
父・秀忠は、大井川は幕府の重要な防衛線であり、家康の意向でもある事から橋を破却させました。
また、将軍である家光の許可なく橋をかけた事により兄弟の確執は深まり、やがて忠長は改易処分を受ける事になります。
これ以降、明治に入るまで大井川に橋が架けられる事は無く、江戸幕府は長い期間平和な時代を維持し、既得権益者の権益は守られる事となりました。
大井川の流れは忠長にとっては悪い方向に向かわせたのですが江戸幕府や既得権益者にとっては良い方向に向かわせたと言う事ですね。
人生において幸不幸は川の流れのように流れが変わります。いつ幸せが不幸に、不幸が幸せに転じるか分かりません。楽しい事、楽しくない事も同じです。
島田宿大井川川越遺跡に訪れる機会がありましたら、楽しい時間を楽しめられるだけ楽しんでお過ごし下さい。