裏側で機能した気賀関所

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物や物事には表があれば裏があります。

「表裏一体」とは二つのものの関係が、表と裏のように密接で切り離せないことを指します。

江戸時代に整備された五街道の一つ東海道。

江戸幕府は軍事・警備上の必要から特に鉄砲の江戸への持ち込みと江戸に住まわせた諸大名の妻女が江戸外に出る、いわゆる「入鉄砲に出女」の監視・取り締りを厳しく行う為に東海道に二つの関所を設けました。

箱根関所(はこねせきしょ)と新居関所(あらいせきしょ)です。

ところが東海道三大関所と呼ばれるものがあります。

残りの一つはどこなのでしょうか?

答えは気賀関所(きがせきしょ)です。

↑気賀関所

しかし、気賀関所は東海道上にはありません。

ではどこにあるのでしょうか?

東海道には見付宿(静岡県磐田市)辺りから枝分かれして浜名湖の北側を通り御油宿(愛知県豊川市)に抜ける姫街道と呼ばれる別ルート(裏ルート)がありました。

番所とは警備や見張りのために設置された番人が詰めるために設けられた施設を指します。気賀関所は新居関所の裏番所として姫街道上の浜名湖北端に位置する気賀(現在の浜松市北区細江町気賀)に設けられた関所なのです。

↑気賀関所_本番所

気賀関所の目的は特に「入鉄砲に出女」の監視・取り締りにあります。

の番所である新居関所との番所である気賀関所は切っても切れない関係にあるのが分かります。新居関所と気賀関所は表裏一体の関係にあったわけです。

姫街道の名前の由来の一つに、新居関所の監視・取り締りを回避する為、女性の多くが姫街道を利用したからと言うものがありますが、どうやらこの説の信憑性は薄そうですね。↑気賀関所

さて、気賀関所の設置時期ですが、1601年に江戸幕府が東海道宿駅の制を定めたときに設置されたとする説が一般的とされています。

以降、関所としての役割は1869年(明治2年)に廃止されるまで続きました。

廃止後も関所の本体とも言える本番所だけは1960年(昭和35年)まで現存していたそうですが残念ながらその後解体されたとの事です。

現在、私たちが見る事の出来る気賀関所は1990年(平成2年)に江戸時代の文書や残存していた本番所の一部を参考にして復元されたものです。敷地内には姫様館の名称を持つ資料館も併設されています。

復元とは言え当時の様子を間近に見られるのはありがたい事です。↑気賀関所_冠木門↑気賀関所_本番所↑気賀関所_向番所↑気賀関所_向番所の牢屋↑気賀関所_遠見番所↑気賀関所_遠見番所からの眺め

↑気賀関所_姫様館(資料館)

余談ですが、気賀関所から約500m離れたところに堀川城跡があります。

堀川城は遠江(静岡県西部)へ領土拡大を狙う徳川家康の進行を防ぐ為に今川氏の家臣と気賀の住民らによって築かれた城です。↑堀川城跡

1569年、今川氏の家臣と地元の農民などの雑兵約1,700人が城に立て籠もり徳川軍と一戦を交えました。「堀川城の戦い」と呼ばれています。

勝利したのは徳川軍です。

この戦いで堀川城に籠った城兵の半分は討死し、生き残ったものは捕えられ、家康の命により約700人が処刑されました。

徳川家康はその時代にあっては比較的むやみに人を殺める事をしなかった武将です。これを表の顔とするなら堀川城の戦いでの農民の処刑は家康の裏の顔であったと言えるかもしれません。

気賀関所の近くで窺い知る事の出来るもう一つの表と裏の話でした。

一枚の紙にも裏表

一枚の薄っぺらな紙にも、よく見ると裏と表がある。単純に見えるものでも、子細に見ると複雑な要素があるものである。物事のうわべだけを見て、すぐに判断してはならないと言う意味です。

気賀の歴史に残る表と裏に触れながら物事を的確に見極める判断力を養いましょう。

 

 

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