藤堂高虎が築城した水城の集大成とも言える津城

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石垣の上を覆う木々の緑に呼応しているかのような緑の水面。

その水面に映る美しい石垣。

三重県津市の中心部に位置する津城のお堀の風景です。↑津城跡

この城を語るには戦国武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)を外すことは出来ません。

浅井長政(あざいながまさ)、阿閉貞征(あつじさだゆき)、磯野員昌(いそのかずまさ)、織田信澄(おだのぶずみ)、豊臣秀長(とよとみひでなが)、豊臣秀保(とよとみひでやす)、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光。

高虎が生涯に仕えた主君達です。

高虎は主君を何度も変え、最終的には徳川家康の元で武功を上げ、絶大なる信用を得た事で津藩初代藩主となり32万石を有する大大名の地位まで昇り詰めました。↑津城跡_藤堂高虎の像

高虎は主君を変えて行く中で常に自分の能力を磨き続ける事で出世して行ったのですが、その能力の一つに城造りがあります。

高虎の城造りの特徴は石垣の高さにあます。これは石垣を安定的に積む技術に長けている事を示しています。

この築城技術の高さを賞して、加藤清正(かとうきよまさ)と並び「戦国二大築城名人」の1人として数えられています。あるいは、この2人に黒田如水(くろだじょすい)を加えて「戦国三大築城名人」とも称されています。↑津城跡_丑寅櫓

それでは、まず津城の歴史を見てみましょう。

津城は戦国時代の永禄年間(1558年〜1569年)、伊勢国で勢力を持っていた長野氏から分家した細野藤光(ほそのふじみつ)が安濃川(あのうがわ)・岩田川の両河川に挟まれた三角州に小規模な城を構えたことが始まりとされています。↑津城跡

その後、織田信長の伊勢侵攻に伴い、1569年、信長の弟の織田信包(おだのぶかね)がこの城に入り城郭を拡充しました。

豊臣秀吉の時代になると秀吉の命により、1595年、富田一白(とみたいっぱく)が信包と入れ替わります。

そして江戸時代の1608年、富田氏と入れ替わり藤堂高虎が初代津藩主として城主となりました。

以上、高虎が津の城主となるまでの歴史です。↑津城跡

ところで、高虎が築城に関わった城は20以上を数えます。

その主なものを紹介しましょう。

膳所城(ぜぜじょう:滋賀県大津市)

日本三大湖城の一つに数えられている。徳川家康の命により高虎が縄張り(城の設計)と築城の補佐をした。

甘崎城(あまざきじょう:愛媛県今治市)

村上水軍の拠点の一つだった城。豊臣秀吉が瀬戸内海の覇権を握ると高虎が大改修を行い高虎の属城となった。

淀城(よどじょう:京都市伏見区)

淀は、京都市伏見区西南部の地域名。淀は「与渡津(淀の港)」と呼ばれ、古代には諸国から荷の陸揚げを集積する商業地であった。徳川秀忠の命により高虎が普請の手伝いを行った。

宇和島城(うわじまじょう:愛媛県宇和島市)

東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城」でもある。高虎が築城主。

今治城(いまばりじょう:愛媛県今治市)

日本三大水城の一つに数えられている。三重の堀に海水を引き入れた構造となっている。高虎が築城主。

もうお気づきですね。

共通する点は「水」です。もちろん、そうでない城も築いていますが高虎は特に「水城」の築城が得意分野だったと言えます。

もう一つ興味深いものを紹介しましょう。

韓国にある順天倭城(じゅんてんわじょう)です。

順天倭城は朝鮮に出兵した慶長の役で小西行長(こにしゆきなが)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らと築いた城です。城の立地は小さな半島状の地形で、三方は海に囲まれた天然の要害となっています。

韓国でも高虎は水城の築城に携わっていたんですね。↑内堀の埋立地に建立された高虎が主祭神として祀られる高山神社(こうざんじんじゃ)

さて、津城です。

津城のある津市の語源はかつて安濃津(あのつ)と呼ばれる津(港)があった事に由来しています。

安濃津は京に近く、平安時代から京の重要な港として利用され栄えた場所でした。それ故に日本の主要港である三津七湊(さんしんしちそう)の一つに数えられ、中国の歴史書においても福岡県の博多津、鹿児島県の坊津と並んで日本三津(さんしん)に数えられているほどです。

安濃津がどこに有ったのかは明確になっていないようですが、津城は安濃津付近に築城されたと推測されています。

以上の事から津城の別名を安濃津城と呼びます。↑津城跡

輪郭式の城郭とは、中心に本丸、その周囲を二の丸が囲み、さらにその周囲を三の丸が取り囲む構造の城を指します。

高虎は津城に入ると大改修を行い輪郭式の城郭に変貌させました。

残念ながら堀の一部は埋め立てられてしまっているので当時の規模の堀を見る事は出来ませんが、特に本丸を取り囲んでいた内堀の規模は、最も広い所で 100m ほどの幅があったと言う事です。

津城は津市(安濃津)と言う場所にある事も含めて高虎の水城造りの集大成だったと言えるでしょう。↑津城跡

高虎は1人の主君に仕え続ける事は止めても築城技術と言う能力を磨き続ける事は止めませんでした

一つの能力を磨き極める

津城はその重要性を物語っています。

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