日本人にとって欠かせない料理の一つに蕎麦(そば)がありますね。
長野県の木曽地方は蕎麦どころとして有名です。木曽地方の宿場町の一つに奈良井宿(ならいじゅく)があります。奈良井宿について調べていたら蕎麦に関して「えっ!?そうなの?」と言う事が出て来ました。私が知らなかっただけかも知れませんが奈良井宿の紹介と共にお伝えします。
中山道(なかせんどう)は江戸時代の五街道の一つ。特に木曽地方を横切る区間は木曽路(きそじ)とも呼ばれ、今は国道19号線がその代わりとしてこの地域の幹線道路となり、沿道には蕎麦屋さんを多く見る事が出来ます。
中山道は69の宿場からなり、その34番目の宿場町が奈良井宿です。奈良井宿は奈良井川沿いに約1kmの街並みを形成する日本最長の宿場です!
江戸時代にタイムスリップしたような感覚を持たせてくれるその長く続く情緒豊かな古い町並みは心を落ち着かせてくれます。
奈良井と言う地名がいつ頃付いたのかは不明だそうですが戦国時代には奈良井義高(ならいよしたか)と言う人物が奈良井を治めていたようです。
奈良井宿の次の宿場町である薮原宿(やぶはらじゅく)との間にある鳥居峠では中世に何度も戦いが行われたようですが、武田軍が木曽方面を攻略する際に鳥居峠で合戦となり、その戦いを記した文献に奈良井義高の名が出ているそうです。
ただ、不思議な事に、奈良井宿には現在、奈良井姓を名乗っている方はいないとの事です。
奈良井氏居館跡と墓地は現在も残されていると言う事ですから、どこへ行ってしまったんでしょうね?
そんな歴史を持つ奈良井宿には何軒もの蕎麦屋さんがお店を構えています。
さて、ここからは蕎麦の話です。奈良井宿観光案内書の発行している「奈良井宿かわらばん」には蕎麦の食べ方と発祥について記載があります。
まずは、蕎麦の食べ方からです。
尾張藩主・徳川義直(よしなお)に儒学者として仕えた堀杏庵(ほりきょあん)が、寛永 13年(1636年)4月に日光東照宮の造営完成の式典に参列する義直に同行し、中山道を旅したときに書いた「山中目録」という旅行記があり、そこに蕎麦の食べ方に関する最古の記述があるそうです。
それによれば「楢井(奈良井)を通過し贄川宿(にえかわじゅく)に着いた。その夜、義直候は蕎麦切りを召し上がり、自分たちも相伴に預かった。それは冷やしそうめんのようで、大根の絞り汁にたれ味噌を少々加え味を整え、鰹 節かつおぶしの粉や葱(ねぎ)やニラを薬味として添え、その汁で食べるものである。それは、大いに美味だったので、おおいに食べたが、中にはあまりのおいしさに誘われ、数十椀も食べた者もいた程だった。」と言う事です。
しっかりと「奈良井」の名前が出ていますね。興味のある方は、この文献に沿って蕎麦を食べてみてはどうでしょうか(^^)
ところで普段私たちが単に「そば」と呼ぶ時は麺状のものを指しますよね。でも正式には「蕎麦切り(そばきり)」だそうです。
知らなかった~。もしかしたら、私だけですかね?皆さん知っていました?
そして、この蕎麦切りの発祥の地の一つとされているのが木曽地方です。
宝永3年(1706年)に森川許六(きょろく)によって編纂された俳文集「風俗文選(もんぜん)」に収録されている雲鈴(うんれい)作「蕎麦切ノ頌(そばきりのしょう)」の書き出しに「蕎麦切といっぱ(いうのは)もと信濃国本山宿(塩尻市)より出て、あまねく国々にもてはやされける」とあるそうです。
他に、甲州の天目山(山梨県甲州市にある臨済宗棲雲(せいうん)寺の山号)から始まったという記録があるそうですが、どちらが先なのかは分かっていないようです。
ちなみに、蕎麦切りが考えられる前は、粒のまま粥にしたり、蕎麦粉を水で溶いて焼いたりしていたようです。
普段当たり前と思い込んでいる事が実は違っていたと言う事は良くありますよね。特に人間関係においては思い込みによってトラブルになる事もあります。何か不信に感じた時は一度色眼鏡を外してみるのも大切ですね。
今回は「蕎麦切り」から学びました。木曽方面におでかけの際は美味しい「蕎麦切り」を食べて下さい!