戦国時代、日本各地で繰り広げられた国取合戦。
それは九州も例外ではなかった。
豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)を中心に九州の過半を手中に収めたのが大友氏である。
その大友氏の本拠地だった府内(ふない:大分市中心部)には大友館が置かれ町は発展した。
特に21代目のキリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん)の庇護の下、キリスト教布教の中心地となり、南蛮文化が花開き繁栄を極めた。特筆すべきは日本で初めての西洋式の病院が開設されたと言う事だろう。
しかしその後、大友氏は島津氏等との抗争に敗れて急速に衰退して行く事になる。
更に、豊臣秀吉が九州平定に成功すると豊後国は細分され諸侯に封じられた。
府内へは石田三成の妹婿だった福原直高(ふくはらなおたか)が封じられ府内城の築城を開始した。しかし直高は改易となり、その後を引き継いだ早川長敏(はやかわながとし)もまた改易となってしまう。
最終的に竹中重利(たけなかしげとし)によって1602年(慶長7年)に完成された。
これが現在の府内城の原型となっている。
府内城は二つの別名を持っている。
城の立つこの地はかつて北は別府湾に接し、海に浮かぶ水城とも言える城であった。その美しい姿から白雉城(はくちじょう)と呼ばれている。
もう一つの別名は荷揚城(にあげじょう)である。
府内城は大分川河口左岸に当るかつて常に船が出入りし荷物の積み下ろしがされていた「荷落(におろし)」と言う場所(交易地)に築城された。本来ならば荷落城となるところだが「落」の字を忌み、「揚」の字に改め荷揚城とされたそうだ。
ところで交易地に築城された府内城だが、城が接していた別府湾の沖には当時栄えた別の交易地が存在していた可能性がある。
それが東西約4km、南北約2km、周囲12kmの瓜生島(うりゅうじま)だ。
瓜生島には5,000名もの人が住み南蛮貿易の基地だったとされ、その港・沖の浜港は国際貿易港として各国からの入船でにぎわったと言われている。
しかし、現在、別府湾にはそのような大きな島を望むことは出来ない。
ではどこにあったのだろうか?
そのヒントがアトランティス大陸だ。アトランティス大陸は今から約1万2000年前に大地震と大洪水により一晩にして海中に沈んで姿を消してしまったとされる伝説の大陸である。
そう、瓜生島は1日にして海底へ沈んでしまった島なのだ!
では瓜生島も伝説なのだろうか?
それが、そうでもなく実在した島だったようである。
と言うのも瓜生島は色々な文献に記されているからだ。
『豊陽古事談』と呼ばれる文献には瓜生島の古地図が納められおり、「豊府紀聞」と言う文献には瓜生島は1596年9月4日に地震によって沈んだと記されている。
この地震は実際に起きたものである事がこれ迄の研究で判明しており国立天文台が編集する「理科年表」にも慶長豊後地震として記録されている。
また、日本でキリストの布教活動をしたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、「九州にある太閤の海港が地震によって被害を受けた」と言及しているなどポルトガルや明などの外国文献にもその名が記されているとう言う事だ。
これらの文献の詳細については他に譲るが、瓜生島が存在した可能性は相当に高い。
これらが事実であれば府内を中心とした豊後国は当時の最先端を走っていた事になる。
いずれにしても宗麟の先進的な取組みは模範にすべきところである。
ちなみに瓜生島が地震によって沈んだ年が1596年でその一年後の1597年に府内城の築城が開始されている。交易地だった瓜生島の機能を補うために早急に計画されたのかもしれない。
あれこれ想像すると興味は尽きない。
約400年前には海に面していた府内城と、今は視界を遮るものはなく青く広がる別府湾は私達の想像力を逞しくしてくれる存在である。
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