富山城と関わりのある有名な町と珍しい門

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富山城

富山城址公園に存在感を持って佇む富山城。

実際のところ江戸時代の富山城に天守閣は存在しませんでした。現在の富山城は昭和29年(1954年)に富山城址の敷地一帯で富山産業博覧会が開催された際に建てられた模擬天守閣です。

例え模擬天守でも富山市のシンボルとして市民に親しまれています。

やはりお城は日本人にとって特別なものですよね。

富山城と言えば佐々成政(さっさなりまさ)と言うイメージが強いと思いますが今回は別の視点から見てみたいと思います。

富山城は当時この地方の一大勢力だった神保氏の嫡流である神保長職(じんぼうながとも)によって天文12年(1543年)頃築城されたとされています。

しかし、永禄3年(1560年) 長職は上杉謙信との戦いに破れ、富山城は上杉氏の支配下に入る事に。

その後、神保氏は上杉氏に対し従属と牽制を繰り返した為、神保氏家中に親上杉派と反上杉派を生み出します。両派は対立し、この内紛により神保氏は疲弊して行きます。

最終的に反上杉路線だった長職の意志は次男の長城(ながなり)に継承されるも上杉氏の大規模な侵攻により神保氏の嫡流(直系の血筋のこと)は滅亡してしまいます。

しかし、神保の名は意外なところに残っています。

東京にある世界最大級の書店街、特に古書店が多く、古書店街としても世界最大級の街。そうです神田神保町です!

読書が好きな人にとっては魅力的な街ですよね~♪

神保氏の嫡流は途絶えてしまいましたが庶流(しょりゅう:本家より別れた一族のこと)の家系は江戸時代まで続き徳川氏に仕え旗本として生き残ります。

そして神保氏の屋敷のあった位置から神保町の名が生まれました。

神保町は書店の街であると共にその周辺には多くの大学が集まっており学生の街としても機能しています。

学生さんと言えば試験と言う単語が思い浮かびますね。高校入試、大学入試、国家試験等々の狭き門に挑戦する為に神保町周辺の大学生に限らず多くの人が神保町の書店街で本を購入して勉学に励んでいるのではないでしょうか?

ところで狭き門と言って東大と答える人は多いと思います。そして東大で有名な門と言えば赤門ですね。

赤門は文政10年(1827年)加賀藩13代藩主前田斉泰(まえだなりやす)が、11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)の娘溶姫(やすひめ)を正室に迎える際に加賀藩前田家上屋敷の御守殿門として創建されました。

御守殿(ごしゅでん)とは江戸時代において三位以上の大名に嫁いだ徳川将軍家の娘の敬称であり、また、その居住する奥御殿を指します。

門が赤い理由は三位以上の大名である加賀藩前田氏が将軍家から妻を迎えた為、慣例に従い朱塗りにしたからです。

この赤門の建築構造は非常に珍しく唐破風造りの三間薬医門と呼ばれ「他に類する建造物が現存しないため、非常に貴重である」と紹介されているものもみかけます。

ところが同じ建築構造の門がもう一つ存在します。

それが富山城址公園に現存する唯一の建造物、千歳御門(ちとせごもん)です!

千歳御門は富山藩10代藩主前田利保(まえだとしやす)が隠居所として現在とは異なる位置に正門として造営されたものです。

明治の初めに富山市の豪農に払い下げられ移築されましたが、所有者から寄付を受け、平成18年(2006年)から2年をかけて現在の位置に移築されました。

書店の町の名前の由来になったり、東大の赤門と共通点があったり、富山城は学問と関わりが深いですね~(^^)

本には人が何年もかけて経験した事、学んだ事が凝縮して書かれています。自分一人で考えたり体験できる範囲は限られています。本はその不足を補ってくれます。そして自分の行く事の出来ない時代へタイムスリップさせてくれます。

富山城にゆかりのある神保町で本を買って戦国時代の富山城を見学してみましょう!

富山城探訪―越中460年を行く (北日本新聞社新書 1) - 北日本新聞社編集局

富山城探訪―越中460年を行く (北日本新聞社新書 1)

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