1発の銃声が種子島に響き渡りました!
この音が日本の歴史の変化点を知らせる合図だったのかも知れません。
今から500年近く前にポルトガルから鉄砲が日本に渡って来ました。
実はこの時、鉄砲の華々しい日本デビューの陰に隠れてしまい目立たぬ形で日本に上陸したもう一つの重要なものがあります。
種子島に到着した鉄砲のうち1挺は室町幕府第11代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の下に辿りつき、国友村(現滋賀県長浜市国友町)の鍛冶師に鉄砲を製作させる事へとつながります。
国友村は古くから多くの鍛冶師が住んでいたと考えられ、室町時代には鍛冶師の集落が形成されていたようです。江戸時代に入ると堺(大阪府)と並び日本の二大鉄砲生産地へと発展して行きました。
現在の国友町には当時の鍛冶師の屋敷跡を記す石碑があちこちに立てられ、当時の発展ぶりを物語っています。
↑側溝の蓋にも鉄砲の図柄が!
鉄砲作りによって培われた高度な技術はやがて1人の優秀な男を造り上げます。
国友一貫斎(くにともいっかんさい)です。
彼は鉄砲造りで得た技術を活かし日本で最初の実用空気銃や反射望遠鏡を製作し、東洋のエジソンと呼ばれるほどになります。
↑一貫斎の屋敷跡
一貫斎は望遠鏡を製作しただけでなく、その自作の望遠鏡で太陽の黒点観測を行うなど日本の天文学の先駆者としても名を残しています。
↑「星を見つめる少年」像
一貫斎はその他、懐中筆(筆ペン)、玉燈(照明器具)、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出しました。
国友町にある一貫斎の屋敷跡横にはその勤勉さを表現したのか少女の像が本を片手に空を見上げています。
↑「読書する少女」像
さて、そろそろ冒頭で触れた鉄砲と一緒に日本に上陸したものについての話をしましょう。
鉄砲には私たちの生活に欠かせないものが使用されていました。
それは「ネジ」です。
銃尾をふさぐためにネジが使われていたのです。
このネジの製作に当時の鍛冶師は相当苦労したようです。
雄ネジの加工は比較的容易に出来たようですが「やすり」と「たがね」しかなかった当時の金属加工技術からすると雌ネジの加工は難題だったようです。
どのように加工したのか?
金属素材を高温に加熱して成形する熱間鍛造法で製作したのではないかとされているようです。つまり雄ネジをマスターにして型を造り、その型で雌ネジを造ったと推定されています。
難しい技術を必要としたからなのか鉄砲以外に江戸時代の工業製品にネジが使われた例はほとんど見られないと言うことです。
ちなみに東アジアの国々にも西洋から鉄砲が持ち込まれていたようですがネジの加工が出来なかったからなのか国産化に成功したのは日本だけだそうです。
戦国時代に大活躍した鉄砲ではありますが平和な時代に至ってはネジの方が大活躍しているのではないでしょうか?
見た目の華々しさに惑わされることなくネジのように地道にその目的をまっとうすることが周りから信頼を得ることの例えに思えます。
国友町には「国友鉄砲の里資料館」があります。ここで鉄砲の見学をする際は鉄砲の陰にネジの力が隠されている事を忘れないで下さいね(^^)
国友一貫斎についてもっと詳しく知りたい方は小説「玉兎の望み」をお薦めします。立ちはだかる圧力やしがらみに屈せず自分の地位を築き上げるストーリーは爽快感を得ると思います。
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