博多湾の入口に浮かぶ志賀島で発見されたとされる金印は価値あるもの?

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金印公園

もう何年も前の話なのですが、ある日のこと家に印鑑のセールスマンが来ました(今思うと印鑑のセールスマンなんていたのかな?とも思いますが記憶が曖昧なのでお許し下さい)。

今は必要ないとお断りしたのですが印鑑は形や彫り方によって運勢が変わるからしっかりしたものを持った方が良いと説明し始めました。

そのような事もあるのかもしれませんが当時私の持っていた印鑑は親から社会人になるからと言ってプレゼントされたものだった為、私の印鑑には親の愛情や思いやりが織り込まれているから十分満足していると答えたところ相手は私がそんな切り返しをして来るとは予想していなかったのか色々と反論してきました。

結局かなり長いこと押し問答を繰り返して諦めてもらったと記憶しています(^^;

どちらの印鑑が良いのか本当のところは分かりませんがこんな話が出来るほど印鑑文化が日本には根付いていると言うことですね(^^)

ところで一般的に印鑑と表現していますが厳密に言うと誤りがあるようです。

印影を残す為の道具をハンコ(判子)や印章と言い、ハンコとハンコで押されて出来た印影の所有者を一致させるために登録した帳簿を印鑑と呼ぶそうです。

今回の記事の中ではややこしくなるのでそのまま印鑑=ハンコとして使用させて頂きますね。

さて、印鑑文化が浸透している日本ですが印鑑が本格的に使われ始めたのは701年(大宝元年)に律令制が整備されてからと言われています。

ただし当時その使用は律令に定めるところの公印のみに許されており私印の製作や使用は原則的に禁止されていたようです。

平安中期以降になると貴族の間で私印が使用され始め、一般庶民にも使われるようになったのは江戸時代になってからとのことです。

さて、その江戸時代に日本最古の印鑑が発見されています。

そうです教科書に出て来るあの金印です!

2.3cm(縦)×2.3cm(横)×2.2cm(高さ)、重さ108.7gの金印は1784年(天明4年)2月23日に志賀島(しかのしま:福岡県福岡市)で水田の耕作中に地元の甚兵衛(じんべえ)と言う農夫が偶然発見したとされており現在は国宝に指定され福岡市博物館に展示されています。

01 金印

↑福岡市博物館所蔵の金印

02 福岡市博物館

↑福岡市博物館

また志賀島の金印の発見された場所は金印公園になっています。

03 志賀島

↑志賀島

04 金印公園

↑金印公園

金印が文化的価値のあるものと位置付けされたのは、その発見に対し福岡藩の儒学者・亀井南冥(かめいなんめい)が『後漢書』東夷伝(『ごかんしょ』とういでん)を用いて金印の由来を説明した事に端を発しています。

その『後漢書』東夷伝には以下のように記述されています。

「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」(日本語訳:西暦57年、倭奴国が貢物をもって挨拶にきた。使者は自らを大夫と称した。倭奴国は倭国の最南端にある。光武帝は印と綬を授けた)

一方、金印には「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と彫り込まれています。

05 漢委奴国王印影モニュメント

このような関連性から文化財としての価値が認められ国宝に指定されている金印ですが発見者である甚兵衛の実在した記録が残っていないなどの不明確な点も多く、最近では日本三大偽物国宝の一つなどと言う不名誉な称号まで与えられてしまっています(^^;

しかし、言い換えればそれだけ注目されていると言う証拠ですよね。

いずれにしても現時点では国宝ですから大きな心で受け止めておきましょう。

ところで漢委奴國王とは誰なのでしょうか?

かつて志賀島を含むこの地域を治めていた安曇族の首領など様々な説があるようですが特定されていません。

まだまだ金印には古代史のロマンが残されていると言うわけですね。

ちなみに福岡市博物館には金印のレプリカが売っています。

06 金印レプリカ

これを持てばあなたも国王です!

金印が本物か偽物かは分かりません。しかし少なくとも色々な経済効果をもたらしているから価値のあるものになっているのは事実です。

偽造は良くない行為ですが仮に偽物で価値のない物でも、やり方によっては価値のあるものに変換出来てしまうという事ですね。

こんなことを教えてくれた金印には素直に感謝しておきましょう。

金印を目的に福岡に足を運んだ際は志賀島の金印公園と福岡市博物館はセットで訪問することを忘れずに!

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