水面に反射された輝きと相まってその存在感は拡張される。
室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の孫に当たる第三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)によって創建されたこの建物の輝きは訪問者を日常から隔離された世界へといざなう。
金閣寺。その名のごとく派手な容姿である。そこに目を奪われ建築様式の特異さについては見落としがちになってしまう。
しかしそこには義満の覇気が反映されていると言われている。
金閣寺を訪れる際にはこのことも留意しながら見学をして頂けたらと思う。そうすることにより違った尺度で金閣寺を眺める事が出来るからだ。
義満は皇位継承を巡り分裂していた天皇家を統一した。南北朝の統一である。更には有力守護大名の勢力を抑止し不安定だった幕府権力を確たるものとした。
圧倒的な権力を手に入れた義満はさらなる高みを目指す。
長男・義持(よしもち)に将軍の座を渡し、次男・義嗣(よしつぐ)を天皇の子と同じ形式をもって宮中で元服させた。このことは義嗣が次期天皇になる事を示唆している。
義満は何を狙ったのか?
そう、将軍と天皇の上に立つこと。つまり日本に存在する両権力の頂点に君臨しようとしたのである。
そしてこの構図が金閣寺の建築様式に表現されているのだ。
三層からなる金閣寺はそれぞれの層が異なる様式を持っており一層は寝殿造り、二層が書院造り、三層が禅宗様式となっている。これは日本の建築様式においては非常に珍しい造りとの事である。
それぞれを次のように置き換えることができると言う。
寝殿造り=朝廷、書院造り=武家、禅宗様式=足利義満
当時、寝殿造りは公家が、書院造は武家が好んでいた。そしてこの頃義満は禅宗の僧として出家していた。
お分りであろう。義満が公家、武家の上に位置する事を示しているのである。
更に金閣寺の頂上に添えられている鳳凰を付け加えたい。鳳凰は徳のある天子が出現した時に姿を現すとされる想像上の鳥である。天皇が代わることを暗示している。
金閣寺は義満の考えそのものなのだ。
そこへ持って金箔で覆われているから申し分ないであろう。
ところが一層の部分だけ金箔が貼られていない。なぜなのだろうか?
再度、その造りを思い浮かべた時答えは導かれる。寝殿造りの一層は公家を意味している。となればそこに義満の意思が反映されていてもおかしくはない。義満は公家の繁栄を望まなかったのではなかろうか。
金箔は雨などにも強く強酸などにも反応しないらしい。
しかし、炎には敵わず金閣寺は1950年(昭和25年)に学僧による放火で焼失している。このことは三島由紀夫氏が残した小説「金閣寺」にも描写されており万人の知るところである。
現在の金閣寺は1955年(昭和30年)に再建されたものである。当時の費用で7億4000万円かかったと言われている。これだけの支出をさせたと言う事は今もなお義満の想いが続いているのかもしれない。
ところで義満は頂点に立つことが出来たのか?
答えはNOである。
義満は金閣寺の他、将軍家の邸宅である通称「花の御所」を京都室町(現在の京都府京都市上京区)に建立し(余談ではあるが室町幕府の名はここから来ている)北山文化を開花させた。また明との勘合貿易を開始し幕府の財政を大いに潤わせた。
が、しかし野望を果たす前に死を迎えることとなった。その原因は暗殺と言う説もある。義満を主人公にした平岩弓枝氏の小説「獅子の座」もその説を軸に物語が展開されている。
織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、石山本願寺と対立した。安土城と言う大型の天守を持つそれまでの城にはない独創的で絢爛豪華な城を建立し天下統一に向けて躍進した。しかしその絶頂期に明智光秀に討たれてしまう。
平清盛は平氏一門が支配する武家の世を築いた。日宋貿易を拡大し莫大な財力を手に入れその繁栄を意のままにした。清盛は「平氏にあらずんば人にあらず」と呼ばれる平家中心の世を築きあげた。しかし清盛の死後わずか4年後に壇ノ浦の戦いで平家一門は滅亡に追いやられた。
「驕る平家は久しからず」
足利義満、織田信長、平清盛。絶大な権力を手に入れかけた時その野望は打ち砕かれている。
何が足りなかったか?
それは「謙虚さ」だと思う。
人は華やかな事。見た目の美しさに気を引かれる。とかくその内側に目を向けることを忘れがちである。
しかし物事の継続性を保つのに重要な事はその見た目の豪華さに加え目に見えない謙虚さを兼ね備えることが必要ではないのだろうか?
金閣寺に訪れた際は見た目の輝きだけでなく、謙虚と言う異なる尺度を加えて眺めて頂きたい。