ただ「純粋」にそして「無垢」でありながらも「威厳」を保ちつつ色とりどりの姿を惜しげも無く披露してくれます。
「純粋」「無垢」「威厳」はユリの花言葉です。
3万坪の広大な敷地を持つ可睡(かすい)ゆりの園(静岡県袋井市)では毎年5月中旬〜7月初旬にかけて150品種近いユリが花を咲かせます。
更に園内では「ユリの天ぷら」を食すこともできますから目を楽しませてくれるだけでなく舌まで楽しませてくれるもてなしようです。
↑ゆりの天ぷら
何事も中途半端な状態ではそれに対する印象や感動なども中途半端になってしまうでしょう。
しかし、可睡ゆりの園はユリにとことんこだわっていますから感動もより大きくなるわけです。
さて、可睡ゆりの園の「可睡」の名は隣接する可睡斎(かすいさい)から来ています。
可睡斎とは室町時代初期の応永年間(1394年〜1428年)に恕仲天誾(じょちゅうてんぎん)禅師によって開山された曹洞宗の寺院です。
↑可睡斎(山門)
↑可睡斎(本堂)
可睡斎はかつて東洋軒と言う寺名だったそうですがある時期から可睡斎へと名前が変わっています。
なぜなのでしょうか?
時は戦国時代。。。。。
武田信玄との戦で袋井地方に攻めて来た武田軍に追われた幼き徳川家康とその父は東洋軒11代目住職・仙麟等膳(せんりとうぜん)和尚に匿われ命を救われました。家康が父と共に隠れたとされる洞窟は出世六の字穴(伝説)として今も境内に残っています。
その後、現在の静岡県西部一帯を統治し浜松城の城主となった家康は当時の恩を謝するため仙麟等膳和尚を城に招きました。
ところがその席上で仙麟等膳和尚はコクリコクリと居眠りをしてしまったのです。
その姿を見た家康は微笑み
「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、睡(ねむ)る可(べ)し」
と言ったそうです。
それ以来、仙麟等膳和尚は「可睡和尚」と呼ばれたことから、東洋軒は可睡斎と呼ばれるようになったと云うことです。
ところで居眠りと言えば日本人は会議中、公園や電車の中など公共の場でも平気で眠ってしまいますが、どうもこれは日本において顕著に見られる慣習のようです。
ケンブリッジ大学で現代日本について研究するブリジット・ステガー博士によればイギリスでは規則正しい眠りの習慣を確立させるため子供が小さい頃から親と別室で寝かせるのが一般的だそうですが日本では子供を寝しつけるのに学齢に達するまでは同室で寝かせた方が社会的に安定した大人に育つと信じられているとし、この違いが人前で眠るかどうかに関わっていると指摘しているそうです。
また日本では寝る間を惜しんで勉学に励むのが美徳だと考える傾向にあります。このことから居眠りは職務に真剣に打ち込んだ疲労からくるものと判断され必ずしも怠惰な傾向を表すものではないとしています。
さて、居眠りの歴史に注目すると平安時代、鎌倉時代には既に広まっていたようです。居眠りに関する話や絵などはしばしば古い文献の中に登場して来るそうですが、その最も有名なものの一つが徳川家康の祀られる日光東照宮にある彫刻「眠り猫」ではないでしょうか?
↑眠り猫(出典:Wikipedia)
家康は眠っている時もあらゆる方面に監視の目を向け、しばしば眠っているふりをしたとされていることから眠り猫は家康の象徴であると言う説もあるようです。
ステガー博士は居眠りの「居」は、「その場にいること」を示しており、その場の社会的状況を邪魔しない限り好きにできる従属的関与とみなし、積極的貢献が必要なときにはすぐに現場に戻ることができる行いだと説明しているそうです。
家康はステガー博士の定義する「居眠り」の定義を実践していたことになりますね!
家康が居眠りした和尚を叱らず好意的に受け止めたと云うことは居眠りの定義を理解していたからなのかも知れませんね(^^)