美しいコヒガンザクラが咲く高遠の町が生んだ名君

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高遠城址

権力の扱い方を間違えるとその事象は発生する。

極端な長時間労働、残業代の未払い。過酷な条件下で労働者を酷使する「ブラック企業」。

職場での優位性から下級の者に対して人格や尊厳を侵害する言動を浴びせたりするなどして精神的ダメージを与える「パワハラ」。

これらの単語を耳にするようになって久しい。

経営者や管理者、上位職など上に立つ者の人格が欠如していたり教養が足りなかったりする事は権力を間違って扱ってしまう要因の一つになっているのは間違い無いであろう。

君主・統治者のうち能力的に優れておらず国政を顧みない行動をとった君主を暗君と呼び、対して善政を行う優れた君主の事を名君と呼ぶ。

歴史上名君と呼ばれる人物に学び教養を高めれば誤った権力の使い方を防ぐ事が出来るだろう。

幕末に雄藩の一つとして徳川幕府の要となった会津藩は新政府軍の勝利により賊軍とされてしまった。

にも関わらずその尽瘁は現代まで美談として語り継がれている。

そのような会津藩を治めていた松平家の家祖は名君と謳われる保科正之(ほしなまさゆき)である。

ブラック企業やパワハラは私達を取り巻く環境の激変により雇用形態が変容する中で出てきた歪みとも言える。そして今、働き方の見直しが叫ばれている。

徳川家康により戦国の世に終止符が打たれ3代目将軍徳川家光の時代になると武力で世を治める事に歪みが出始めた。その歪みに対し変革をもたらしたのが家光の異母弟である正之だ。

正之は幕府の政策を武断から文治へと大きく舵を切った人物である。

正之が残した業績を少しだけ以下に列記する。

◆大名人質制度の廃止

◆玉川上水開削(開削した玉川上水を利用して敵兵が江戸に攻めて来る懸念があるとして反対意見も出たが平和な時代にそのような事は起こりにくいとして江戸庶民の生活基盤を優先させるために遂行した)

◆明暦の大火直後の江戸復興計画の立案と実行(明暦の大火により江戸城天守閣も焼失したが天守閣は平和な時代には無用の長物でありこれに大金を使う必要は無いとして再建せずに町の復興に当てた。これは正之の死後も継続され現代に至っている)

権力はこのように使われるべきであろう。

これらの政策はその殆どが自分の配下にある大名や領民に対する思いやりから来ていると想像するのは難くない。

正之がこのような政策をするに至る素地は高遠(現長野県伊那市)の地で育まれたと言っても良いであろう。

01 中央アルプスと高遠の町

↑中央アルプスと高遠

02 高遠の街並み_ご城下通り

↑高遠の街並み(ご城下通り)

正之の父親である2代目将軍徳川秀忠の正室は織田信長の姪に当たる江(ごう)である。彼女は嫉妬心が強かった為、秀忠は側室を持つ事を憚られていた。

そのため、秀忠と下級女中との間に生まれた正之は異母兄である家光に知らされる事なく武田信玄の次女である見性院によって養育された。

この縁から正之は武田家の家臣であった高遠藩初代藩主の保科正光(ほしなまさみつ)の養子となり2代目藩主として保科家を継ぐことになる。

正之の存在を知った家光は正之の謙虚さと才能を気に入り自分の補佐役として取り立てた。家光の死後、家綱の代になってもそれは引き継がれた。

正之の業績は高く評価され高遠藩3万石から山形藩20万石、そして会津藩23万石へと転封と同時に加増されて行った。

正之の後に高遠入りした鳥居家は酷政を行ったため正之の善政を偲んで山形へ流れ込んだ高遠の領民も少なくなかったと言う。

この一例からしても正之は高遠で善政を敷いていた事が窺える。

さて、鳥居家の後の高遠藩だが一旦廃藩となり、その後内藤家が入り版籍奉還(1869年)に至るまで藩政を担っている。

幕末に藩主を務めた7代目藩主・内藤 頼寧(ないとうよりやす)は産業や学問の奨励、新田開発計画、藩直営の桑園経営などに手腕を発揮したと言う。

また、頼寧の家督を相続し8代目と同時に高遠藩最後の藩主となった内藤 頼直(ないとうよりなお)は藩の人材育成を目指し藩校進徳館(しんとくかん)を開校している。

03 進徳館

04 進徳館

↑進徳館(高遠城址公園横)

正之の意志が何らかの形で残されていたのかもしれない。

ところで、高遠と言えば桜が有名である。

毎年春になると高遠城址公園には約1,500本のコヒガンザクラが咲き乱れる。

05 高遠城址公園_高遠閣とコヒガンザクラ

↑高遠城址公園(高遠閣とコヒガンザクラ)

06 高遠城址公園_桜雲橋とコヒガンザクラ

↑高遠城址公園(桜雲橋とコヒガンザクラ)

07 高遠城址公園_太鼓櫓とコヒガンザクラ

↑高遠城址公園(太鼓櫓とコヒガンザクラ)

この桜は1875年(明治8年)、荒れたままになっていた高遠城址を何とかしようと、旧藩士達が馬場の桜を城址に移植したのが始まりとの事である。

旧藩士は藩主の居た城址に花を咲かせる事で善政に対するお礼をしたかったのかもしれない。

ちなみにコヒガンザクラは自生地が知られておらず、高遠から寄贈されたものを除いて高遠城址公園以外には群生が見られないそうだ。

08 コヒガンザクラ

09 コヒガンザクラ高遠の地は正之やコヒガンザクラのように人を惹きつけるものを育てる土地かもしれない。

桜は誰に言われずとも自主的に綺麗な花を咲かせる。人間は木が枯れないよう手助けする事に重きを置けば良い。

自分の所属する組織の運営も同じ事が言えるのでは無いだろうか。

誤った権力の使い方をして強制的に物事に当たらせるより業務が上手く遂行できる環境を整えてやる事の方が重要だと思う。

高遠へコヒガンザクラのお花見を目的に行く機会があればそんな事を思い出して欲しい。

追伸:

保科正之の名君としての功績はここでは語りつくせない。もし時間に余裕があれば中村彰彦著「名君の碑(いしぶみ)」を是非一読して頂きたい。

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