川は川の意思を持って流れ先を決め、人は人の意思を持ってそこに橋を架け、そしてそれぞれの役割を果たします。
大都会大阪の都心を横切る淀川(よどがわ)。
淀川はかつて大坂城の北側を流れ自然の堀の役割を果たしていました。
その淀川を上流に昇って行くと京都符に入り宇治川(うじがわ)と名を変え、更に滋賀県に入ると琵琶湖から流れ出る唯一の河川である瀬田川(せたがわ)へと名を変えます。
↑瀬田川
そしてその瀬田川が大阪城の高さとほぼ同じ高さに達した地点が1874年(明治7年)にオランダ人技師エッセルの指導を受け設置された日本で最初の量水標(りょうすいひょう:河川の岸にある水位を測る設備)の零点と重なります。
この大阪城とほぼ同じ高さの位置にある量水標の上に架かる橋が瀬田の唐橋(せたのからはし:滋賀県大津市)です。
大阪城の上に橋が架かった風景を想像するとなんだか面白いですね。
瀬田の唐橋は京都の宇治橋、山崎橋(850年頃までは記録に残っているものの、今は架かっていない)と並んで日本三古橋・日本三名橋の一つに数えられると共に「瀬田の夕照」として近江八景の一つにも数えられています。
夕日が似合う情緒のある瀬田の唐橋ですが、関わった歴史を照らし合わせるとその情緒的な姿とは裏腹な歴史を持っています。
スポーツ、格闘技などの戦いにおいては何かがキーとなり勝敗に大きな影響を与えます。
「○○を制する者は○○を制す」
戦いを制するに必要なことを度々このように表現しますね。
例えばボクシングにおいては「左を制する者は世界を制す」と言われています。
右利きが圧倒的に多い中で基本的な技とされる左ジャブの技術に長けた選手が試合を優勢に運ぶ事が出来る。ひいては世界王者の地位を手中に収める事が出来ると云う意味です。
「唐橋を制する者は天下を制す」
瀬田の唐橋は古来よりこのように言われて来ました。
琵琶湖を境に日本の東西を結び、京都へ通ずる瀬田の唐橋は日本書紀にも登場し古来より軍事・交通の要衝でした。
そのため、数々の戦いの中で瀬田の唐橋をめぐる攻防戦が幾度となく繰り広げられて来たのです。
ではどのような戦いに関わって来たのでしょうか?
主だったものを以下に列記します。
672年:壬申の乱(じんしんのらん)
1183年:倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)
1184年:寿永の乱(じゅえいのらん)
1221年:承久の乱(じょうきゅうのらん)
1336年:建武の乱(けんむのらん)
1582年:本能寺の変(ほんのうじのへん)、山崎の戦い(やまざきのたたかい)
番外編(940年頃):俵藤太郎秀郷ムカデ退治伝説(たわらとうたひでさとむかでたいじでんせつ)
いかがでしょうか?
多くの戦いに関わっていますね。伝説の中での戦いにも関わっているのは流石ですね(^^)
ちなみにムカデ退治伝説は「唐橋に横たわる大蛇を躊躇せずまたいで歩いた秀郷は大蛇の姿に化けた龍神から三上山を七巻き半する大ムカデの退治を依頼され征伐した」と言った内容です。
唐橋のすぐ近くには秀郷が祀られている勢田橋龍宮秀郷社があります。
↑勢田橋龍宮秀郷社
さて、交通の要衝が故に多くの戦いに関わって来た瀬田の唐橋ですが交通の要衝が故に出来たことわざがあります。
それが「急がば回れ」です。
室町時代に歌われた句があります。
「もののふの 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」
矢橋の船は、滋賀県草津市矢橋港から大津市石場港までの湖上を走る水路です。瀬田の唐橋を渡る陸路は約12km。船の場合約6kmと半分になり、時間は早くなりますが、比叡山吹き下ろしの突風(比叡おろし)によって転覆などの危険がありました。それで、危険な水路より安全な陸路を確実に行くべきとのことを表した句です。
戦いはスポーツ、格闘技などに限らずあらゆる場面において繰り広げられています。それはビジネスであったり、受験勉強であったりと多岐に渡ります。
「急がば回れ」
戦いの中で一呼吸おいて焦らず回り道をする選択肢もあるはずです。
現代は自動車の発達により水路より瀬田の唐橋を渡った方が近道だとは思いますが、この橋を渡る時は「急がば回れ」の意味を改めて考えながら橋を渡って下さいね。
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