その港は古く、歴史に登場するのは7世紀中頃にまで遡ります。
大化の改新(645年)によって中央集権体制を樹立した朝廷は蝦夷征討のため北海道、東北に向けて180艘に及ぶ大船団を遠征させました。その時の寄港地が齶田の浦(あきたのうら)、現在の秋田港です。
江戸時代は佐竹氏久保田藩の藩港となり、藩の商業政策とも相まって港は栄え北前船の寄港地にもなっていました。
このように歴史ある秋田港は埋没との闘いを常にして来たと言って良いかもしれません。
埋没との闘いと言われても何のことか良くわかりませんよね?
秋田港はもともと雄物川(おものがわ)の河口に築かれた港です。
日本海側の冬の気象は荒々しく押し寄せる波が漂砂を引き起こし雄物川からの流砂と重なり河口を埋没させます。現在では港湾が整備され大幅に改善されていますが埋没は航路を浅くしてしまい秋田港を苦しませて来ました。
この埋没との闘いはある意外な方法によって終止符が打たれたと言えるかもしれません。
意外な方法とはどのような方法だったのでしょうか?知りたいですよね。
古文書によると秋田港が小規模だった頃は河口や河道の変動に合わせて船着場の位置を変えるなどの対策をして対処。江戸時代に入り港の規模が大きくなると開削による航路の確保をしていたようです。
昭和の時代に入ると大規模な防波堤等の建造による対策が計画されました。しかし日本は第二次世界大戦へと突入し計画は中止されます。その間、浚渫船(しゅんせつせん:水底をさらって土砂などを取り除く船)によって海底の土砂を取り除く作業を行わなければいけない状況が続きました。
秋田自動車道の秋田北インターを出て県道72号線を秋田港方面に向かう田圃の中に幾つもの普段見慣れない機械が目に入ります。
多分ほとんどの人は何だろう?と疑問に思うのではないでしょうか。
実はこれが秋田港と大いに関わっています。
これらは石油を汲み上げるためのポンピングユニットです。
大抵の人が日本に油田は無いと思っていると思いますが実際のところ北海道から北陸にかけて日本海側には小規模な油田が点在しています。
特に秋田に関しては八橋油田(やばせゆでん)を中心に昭和前半には国内の70%以上を占める程の産油量を誇っていました。
↑現在の八橋油田のポンピングユニット(出典:ウィキペディア)
そのような理由から船舶での輸送の利便性の良い秋田港には当時大規模な製油所が幾つも建造されたのです。
しかし、これが惨事を招きます。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月14日に、100機以上のB-29から製油所の破壊を目的とした空襲(土崎空襲)を受け、秋田港は壊滅的な状態となりました。
「人間万事塞翁が馬」。。。。。何が幸をもたらし、何が不幸になるか分からないと言うことですね。
因みに秋田港は、かつて土崎港と呼ばれていましたが、1941年(昭和16年)、南秋田郡土崎港町が秋田市と合併したことから、港の名前も秋田港と改称された経緯を持っています。
↑秋田港の土崎港地区
さて土崎空襲によって秋田港は主力の浚渫(しゅんせつ)船「第五開北丸」を含む2艘が破壊されてしまい浚渫作業が出来ない状態のまま終戦を迎えました。
戦後の物資不足により新たな浚渫船の建造が不可能な状態となった秋田港は廃港の危機に見舞われる事になったのです。
そこで浮上して来た案が軍艦を沈めて防波堤代わりにするものだったのです。
砂を満載した駆逐艦「栃」「竹」、及び海防艦「伊唐」の3艘が港に沈められ全長268m、高さ6m、幅8mの防波堤が築かれました。
戦争で利用された軍艦が戦争によって打撃を受けた秋田港を救ったわけですね。そのような見方をすれば最後まで使命を全うしたと言えるでしょう。
この堤防は度々補修されながら秋田港を荒波から守って来たのですが1976年(昭和50年)、港の外港開発の展開と共に取り除かれ、その役目を終えました。
3艘の軍艦によって守られた秋田港は現在日本海側屈指の規模の港に成長しウラジオストクや中国の各都市と定期便が就航するなど北の玄関口として重要な役割を担っています。
かつて海底に横たわり秋田港を守っていた鉄の堤防は無くなってしまいましたが現在は空に向かって縦に伸びる鉄を強化ガラスで囲んだタワーが秋田港を見守っています。
それが秋田港発展の最先端の象徴とも言える高さ143mの秋田ポートタワーセリオンです。
地上から100mに位置する展望室からは秋田港はもちろん日本海や男鹿半島、秋田市街など360°の大パノラマが楽しめます。
↑秋田市街
一階の物産館では秋田土産が揃い併設するセリオンスタは屋内緑地と癒しの空間になっています。
↑セリオンスタの屋内緑地
秋田観光をする際は秋田の海の玄関口秋田港のポートタワーセリオンで秋田を一望してから秋田を満喫してみては如何でしょうか!
【関連情報】
秋田のお土産情報です。