八郎潟を造った主は今も八郎潟に住んでいるのでしょうか?

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大潟村

日本一低い山は標高何メートルの山でしょうか?

答えは標高0mです。

え?どう言う事?それって山なの?と思ってしまいますよね。

「標高」を辞書で調べると「平均海面からの高さ」とあります。標高を別の言葉で置き換えるなら「海抜」と言う事になります。

単純にこの日本一低い山の高さを表すと富士山の1,000分の1の3.776mです。

ではからくりを説明しましょう。

この山の山頂である3.776m地点が海抜0mに位置しています。つまり海抜マイナス3.776mの位置に山裾があると言った次第です。

面白いですね(^^)

この山は1992年(平成4年)に秋田県測量設計業協会創立20周年を記念して秋田県大潟村(おおがたむら)に誕生した大潟富士です。

01 大潟富士

大潟村は海抜マイナス4メートルの高さにある為このような遊び心を含んだ山を造る事が可能だったと言う訳です。

大潟村はかつて琵琶湖に次ぐ日本で2番目の広さを誇る八郎潟(はちろうがた)を干拓(かんたく=湖沼・潟などを排水して、陸地や耕地にすること)して造られた村です。

八郎潟の水深は平均3メートルだったためこのような大規模な干拓が可能でした。

この大規模な干拓事業の概要を知るには大潟村総合中心地にある大潟村干拓博物館に行くと良いでしょう。写真や映像によって分かり易く紹介されています。

02 大潟村干拓博物館

03 大潟村干拓博物館

04 大潟村干拓博物館

↑大潟村干拓博物館内の展示物

八郎潟の干拓事業の構想は古くからありました。江戸時代後期には既に久保田藩(秋田藩)の開拓事業の第一人者である渡部斧松(わたなべおのまつ)が八郎潟西岸の400haを開拓しています。彼はその後「八郎潟疎水計画」と言う案を策定しています。

明治に入ると「北海道開拓の父」とも呼ばれる島義勇(しまよしたけ)が秋田県知事に就任中大規模な事業計画「八郎潟開発計画」を打ち出しますが実現に至りませんでした。

その後も幾度か計画が建てられましたがどれも計画倒れとなっています。

最終的に実行に移すきっかけとなったのが戦後の食料不足でした。

1957年(昭和32年)「八郎潟干拓事業計画書」が完成すると「八郎潟干拓事業所」が設置され干拓工事が着工されます。

そして20年に及ぶ歳月をかけ1977年(昭和52年)に完了しました。

このような歴史を辿って造られた大潟村は周囲52kmの堤防に囲まれ山手線(34.5km)がすっぽり入ってしまう広さです。

実際行ってみるとその広さに圧倒させられます。

遥か遠くに地平線が見えるほど広大な耕作地。

05 大潟村

春には県道298号線沿いに約11kmに渡り桜と菜の花が咲き誇ります(桜並木と菜の花ロード)。これだけ長い直線区間に花が咲く様は圧巻です。

06 桜並木と菜の花ロード

男鹿半島(おがはんとう)の付け根にある寒風山山頂から見ても全容が霞んで見えません。

07 大潟村_寒風山からの眺め

↑寒風山山頂から見た大潟村

さて干拓事業により姿を変えてしまった八郎潟には姿を変えてしまった八郎太郎の伝説が残されています。

気立ての優しい八郎太郎は仲間2人と共に木を切りに山奥へと入って行きました。

食事の当番だった彼は三匹のイワナを捕まえ焼きました。八郎太郎が住んでいた里には「食べ物は必ず分かち合う」と言う掟がありましたがあまりのいい匂いに誘われ仲間の分まで全部食べてしまいました。

ところがその後、喉の渇きに襲われ水を飲み続けます。いくら飲んでも渇きは治らず水を飲み続けるうちに龍へと姿を変えてしまったのです。

家に帰れなくなってしまった八郎太郎は放浪の末、日本海付近に自分の棲み家となる湖を作るのに適した場所を見つけました。

そこで山を砕き川を堰き止め滝のように雨を降らせ、なみなみと水を湛えた湖を造り上げました。それが八郎潟です。

このようにして出来上がった八郎潟ですが干拓後も大潟村を囲む東部承水路、西部承水路は水を湛えかつての八郎潟の枠を型取りその面影を残しています。

08 東部承水路

↑東部承水路

そしてかつての八郎潟の南下部広がる湖が現在の八郎潟です。八郎湖や、八郎潟残存湖といった別名を持つ日本で18番目の広さの湖として存在しています。

しかし、八郎太郎がせっかく造った八郎潟の姿を変えてしまって八郎太郎は怒っていませんかね?

09 八郎潟_寒風山からの眺め

↑寒風山山頂から見た現在の八郎潟

伝説の続きです。

ある日、八郎太郎は八郎潟にやってきた渡り鳥から田沢湖(秋田県仙北市)に辰子という美しい娘が住んでいることを聞き辰子に会いに行きます。

辰子もまた八郎太郎と同じく人間から龍へと姿を変えた女性なのです。

辰子は八郎太郎の来訪を喜び、受け入れました。以来、八郎太郎は毎年冬になると田沢湖を訪れ、辰子と暮らすようになりました。

そのため八郎太郎と辰子の暮らす田沢湖は冬も凍ることなく逆に八郎太郎がいない冬の八郎潟は凍るようになったと言う事です。

そして今、八郎太郎は八郎潟に滅多に戻らないとされているそうです。

日本で2番目の広さだった八郎潟の姿が見られなくなってしまった事は残念ですが八郎太郎がほとんど住んでいない八郎潟は小さくなっても問題無かったと言う事なんでしょうね(^^)

日頃行く事の無い広大な土地に身を置くと日頃の忙しさを忘れてしまいます。日常と異なる場所に身を置く事は気持ちの入れ替えを促す方法の一つですね。

大潟村、八郎潟に行って気分転換をしましょう。

ところで辰子はなぜ田沢湖に住んでいるのでしょうか?気になりますね。次回は辰子伝説の残る田沢湖をご案内します。

お楽しみに!

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