静かな山あいに位置するその宿場町の冬は雪が積もり寒さも厳しい。
そんな寒さの中、今から約150年前の1861年12月に約8万人もの大集団がここを通過しました。
中山道六十九次のうち江戸から数えて二十八番目の和田宿(長野県)で起きた出来事です。
↑和田宿
1843年の「中山道宿村大概帳」と言う文献によれば和田宿の宿内家数は126軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒で宿内人口は522人だったそうです。
人口500人の町に対し8万人ですから実に160倍にもなります。
何が起きたのでしょうか?
1861年と言えば幕末の動乱期真っ只中です。
この時期江戸幕府は失墜していた権威を回復するための対応策として「公武合体」を推し進めており、その切り札が将軍家と朝廷の政略結婚でした。
当時の将軍は徳川家茂(とくがわいえもち)。そこへ嫁ぐこととなったのが孝明天皇の異母妹である和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)でした。
その和宮が京から江戸へお輿入れをする際に通ったルートが中山道だったのです。
縁組の反対派が和宮奪回を企んでいるとの噂があった事、また大井川などの難所が東海道より少なかった事からあえて東海道ではなく中山道を選んだようです。
お輿入れの長い行列は何と50kmにも及んだと言います。
和宮の行列本体は2794人、京都方面から送ってくる人が1万人、江戸から迎えに来た人が1万5千人、その他警護などで付随する人を加えて4日間で総勢8万人の大集団になったそうです。
和田宿はこの大行列の主役で有る和宮の宿泊地として選ばれたのです。当時の人達にとっては上を下への大騒ぎだったでしょう。
↑和宮が宿泊した和田宿本陣
↑歴史小説「一路」にも和田宿が登場します。著者の浅田次郎氏も和田宿本陣に訪れています。
和宮が来るとなればその準備をしなければなりません。しかし、和田宿は準備以前に大きな問題を抱えていました。
それは、和宮が来る年の3月に火事で宿の殆どが、全焼してしまっていたからです。
その為、幕府に和宮を受け入れる準備の出来る状態では無いと願い出たのですが受け入れられず建て直しの命が下りました。
結局、幕府からの資金や材料の援助、職人の動員もあり突貫工事によって9月に復旧させるに至りました。
↑和田宿の旅籠の一つ河内屋(かわちや)
当時の和田宿の人達の事を想像すると相当に大変な事だったでしょうね(^^;
現代でも同じ事が言えますが大なり小なり権威のある人が命を下すと周りの人が動く事になります。そのような立場になったら最善の方法を取るよう全体に配慮した上で命を下さなければならないと言う事ですね。
突然ですが「和田」つながりと言う事で和田維四郎(わだつなしろう)と言う方をご存知でしょうか?
和田維四郎は明治・大正期の鉱物学者であり、ベルリン大学へ留学し鉱物学の最新知識を学び帰国後日本人として初めて鉱物学担当の帝国大学教授となり日本の地質調査事業の基礎を築いた人です。
彼は英語のObsidian の日本語の訳語を「黒曜石」として採用した人でもあります。
黒曜石はガラスとよく似た性質を持っている為、割ると非常に鋭い破断面を持つ事から先史時代から世界各地でナイフや鏃(やじり)、槍の穂とし使用されており、日本でも後期旧石器時代から使われていました。
中山道を京都方面から江戸に向かう場合、和田宿の手前に中山道の中でも屈指の難所である和田峠が待ち構えていました。
この和田峠で採取されるのが良質な黒曜石です。
その為、和田宿には黒曜石石器資料館があり黒曜石について学ぶ事が出来ます。
↑黒曜石石器資料館と黒曜石
和田峠で採取出来る黒曜石の訳語採用者が偶然にも和田性を持つ人だったと言うのは何らかの縁があったのでしょうかね?
ところで和田峠は北海道十勝岳、九州の姫島・阿蘇山と共に黒曜石の三大産地に並び称されています。縄文時代には近畿地方や遠くは青森県の三内丸山遺跡にも運ばれ使用されていたそうです。
和田峠は縄文時代にはある意味、黒曜石によって東西を結ぶルートの出発地点だったと言えます。そして、その麓にある和田宿は江戸時代に京と江戸を結ぶ中山道の重要な中継地点として和宮の宿泊地となりました。
偶然ですが和田宿は和宮、和田維四郎、和田峠と「和」の文字でつながっていますね(^^)
「和」とは広義には「輪」となり、つながると言う意味にもなります。次はどんな「和」が和田宿と関わって来るのでしょうか?
和田宿に訪れたら「和」をキーワードに散策してみると新しい発見があるかもしれませんね。