塩の道「千国街道」を通して知る小谷村の歴史と文化

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千国の庄史料館_千国番所

記憶と言う名のノートの古い1ページを切り取り現在の風景と照合させた時に湧き出てくる感覚が「郷愁」とか「懐古」と言ったものであろう。

そしてそこから新たな発見をする事もある。

長野県小谷村(おたりむら)は標高2,000m級の山々に囲まれた自然の豊かな村である。新潟県との県境に位置し、日本海から約40kmの距離にある。

01 小谷村

02 小谷村↑小谷村

今年の夏、約25年ぶりにこの地を訪れた。

その風景の断片から色々な記憶が呼び戻されたのだが、その記憶はその25年前より更に10年以上遡った子供の頃の記憶である。もう少し詳しく述べるなら1970年代〜80年代前半の記憶だ。

今回の記事は私事が多くなってしまうがお許し頂きたい。

私の母は結婚して愛知へ移り住む事となったが出身は小谷村である。そんな訳で私は子供の頃母の帰省に伴って毎年お盆とお正月には小谷村に住む祖父母に会った。

故にこの村には思い出が散らばっている。

子供の頃の興味と今持っている興味とは異なるから色々な発見があった。

そもそもこんな山深い里にいつから人が住み着いたのだろうと言う疑問がある。

小谷村郷土館を訪れた際に年表が掲示されていた。

驚いた事に縄文時代早期紀元前約7,000年前の住居跡や土器が発見されている。

1329年の諏訪大社の鎌倉幕府下知状に小谷の文字が見られ戦国時代の1556年には武田信玄が小谷城(平倉城)の攻略にかかり翌年(1557年)落城とある。

03 小谷村郷土館_小谷村年表↑小谷村年表(小谷村郷土館)

自分が想像していたより昔から開けた土地だった。

歴史と言うより古生物学になるのだが日本最古の恐竜の足跡の化石まで発見されている。

04 小谷村郷土館_恐竜の化石↑恐竜の足跡の化石(小谷村郷土館)

子供の頃は見向きもしなかっただけに大変面白い発見だった。

同じく小谷村郷土館内に囲炉裏の部屋を再現した展示コーナーが有った。

05 小谷村郷土館_囲炉裏の部屋

↑囲炉裏の部屋(小谷村郷土館)

祖父母の家に囲炉裏は無かったし部屋の雰囲気も異なるのだがなんとなく当時の子供の頃の懐かしさが伝わってきた。

祖母はいつも3時頃になると「お茶しましょ。お茶しましょ」と言ってお茶を入れたのだが同時に煮豆や山菜の煮物、漬物、お菓子等々色々なものが机の上に並べられてお茶と言うよりも食事に近かった。

小谷村は日本でも有数の豪雪地帯である。

私の子供の頃の道は狭く山裾を縫うように走っていたからトラックがすれ違うのも一苦労だった。母の実家へは父の運転する車で行ったのだが当時の雪道の運転はさぞかし大変だったであろう。

1987年に公開された映画「私をスキーに連れてって」で火がつき空前のスキーブームが訪れた。その10年後の1998年には長野オリンピックが隣の白馬村で開催された為、小谷村周辺の道路も整備され随分交通の便も良くなった。

正月に里帰りした際は父にスキー場へ連れて行ってもらいスキーを楽しんだ。だから子供の私にとっては雪が積もっていた方がありがたかった。しかし、現地に住む人にとっては今より道路が整備されていない状態の中、雪の積もった外へ出る事はなるべく控えていたかったのではないだろうか。特にお年寄りはどこにも行かずお茶をしながら近所の人と会話をしたりして時間を潰すのが習慣になっていたと思う。

子供の頃はそんな事に想像は及ばず「お茶と言いながらどうしてこんなに色々な物を出すのだろう?」と思ったものだが今は理解出来る。

そのようなお茶の席で「この辺は塩の道だった。千国街道(ちくにかいどう)と呼ばれ塩を運ぶルートだった」と言う話が時々出た。

当時は「ふーん、そーなんだ」程度にしか思っていなかったが今思えば大変興味深い話をしていた事になる。

千国街道は、長野県松本市から新潟県糸魚川市に至る街道だった

06 千国街道(塩の道)↑千国街道

小谷村はかつて千国と呼ばれていた。

番所とは警備や見張りのために設置された番人が詰める為に設けられた施設である。小谷村には江戸時代前期〜1872年(明治2年)まで千国番所が置かれていた。このことから街道の中心だった事が伺える。

現在、千国番所は復元され千国の庄史料館の一部として当時の文化を伝えてくれる。

07 千国の庄史料館_千国番所

08 千国の庄史料館_千国番所↑千国番所(千国の庄史料館)

09 千国の庄史料館

10 千国の庄史料館

↑千国の庄史料館

山に囲まれた信州に住む人々にとって塩や海産物は重要な物資であった事は間違いない。その塩を運ぶルートとなった千国街道が塩の道と呼ばれるようになった事は必然であろう。

11 千国の庄史料館_塩倉

12 千国の庄史料館_塩倉↑塩倉(千国の庄史料館)

ではどのように運んだのか?

この地方では荷物を背負って運ぶ人の事を歩荷(ぼっか)と呼び、牛を使って物を運ぶ人を牛方(うしかた)と呼んだ。

13 千国の庄史料館_歩荷と牛方の像↑歩荷と牛方の像(千国の庄史料館)

牛を使った理由は山道が多い千国街道では蹄が割れていて踏ん張りの効く牛の方が馬より有利として牛を使っていたそうだ。但し、牛を使うのは雪のない季節だけだったと言う事である。冬の歩荷の仕事は過酷なものであった事は容易に想像出来る。

祖父母の家から栂池高原スキー場へ向かう途中に牛方宿(うしかたやど)と呼ばれる建物がある。牛方宿とは牛方と牛が一緒に寝泊まりした宿の事である。当時は人と動物の距離が非常に近かった事を物語っている。

14 牛方宿

15 牛方宿

16 牛方宿↑牛方宿

父がスキー場へ連れて行ってくれる際に何度もこの前を通過したはずだが全く記憶に無い。興味が無いと言う事はいかに記憶に残らないものなのか実感した。もっとも子供がこんな物に興味を持つ事は無いであろうが。

小谷村に残されている牛方宿は千国街道に現存する唯一の牛方宿だそうだ。

後世の人々に塩の道の文化が伝えられ記憶に残るように大切に維持保管されて欲しいと思う。

今回の小谷村への訪問では色々な発見をした。中でも以下の発見は私にとって最大のものだった。

武田信玄に敵対した今川、北条は武田への塩の輸出を禁止した。これを聞いた上杉謙信は憤り、信玄と争うのは武力であって塩ではないと自領から従来通り信州への塩の輸送を許可した。この時の輸送路が千国街道だそうだ。

つまり有名な「敵に塩を送る」の故事は塩の道千国街道に由来するのである。

子供の頃の記憶と現在持っている興味が重なった時、自分にとって新しい発見につながる可能性が拡大される。歳をとっても新鮮な気持ちでいられる秘訣かもしれない。

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