横浜赤レンガ倉庫の歴史と煉瓦の歴史とのシンクロ性

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横浜赤レンガ倉庫

赤レンガの建物は青空が良く似合う。

遠くに超高層ビルが顔を覗かせレトロな建物とのコントラストを表現している。

黒船の来航(1853年)によって横浜港の開港(1859年)を余儀なくされた。以降、日本の貿易量は拡大し横浜港は近代的な港湾の整備が急務となった。

01 横浜港↑横浜港

その対策として1889年〜1917年にかけて造成されたのが新港埠頭である。

日清戦争(1894年〜1895年)後に急成長し東洋最大の港となっていた神戸港や大阪港に対抗するため新港埠頭には最新鋭の施設が準備された。

岸壁とは険しく切り立った岸の事を指すがそれとは別に船舶を横付けするために港湾・運河の埠頭に造った壁の意味を持つ。

新港埠頭には日本初の係船岸壁が建設され最新鋭の岸壁となった。係船岸壁とは船が直接接岸できる岸壁の事である。

港の機能は船の接岸だけではない。船に上げ下げされる荷物を保管する倉庫も必要となる。

この倉庫も係船岸壁と同様、日本最初の荷物用エレベーターや消火水栓(スプリンクラー)、防火扉、避雷針など最新鋭の設備が設置された。

1911年に2号倉庫竣工、1913年に1号倉庫を竣工した横浜赤レンガ倉庫である。

02 横浜赤レンガ倉庫1号館

↑横浜赤レンガ倉庫(1号館)

03 横浜赤レンガ倉庫2号館

↑横浜赤レンガ倉庫(2号館)

日本の貿易拡大と共に横浜赤レンガ倉庫の活躍も拡大して行った。

横浜赤レンガ倉庫を含む新港埠頭は第二次大戦終戦後の1945年に一時連合国軍に接収されたが接収解除後は貿易の急増によって入港船舶トン数、取扱貨物量など、すべての数値が戦前の記録を更新した。

しかし、時代の変遷の中で新港埠頭の役割は他に移り1975年になると取扱貨物量は激減。これにより横浜赤レンガ倉庫も1989年に倉庫としての用途が廃止され、その後しばらく放置された。

栄枯盛衰。物事を好調のまま続ける事は難しい。これも致し方のない事であっただろう。

現在見られる横浜赤レンガ倉庫の賑わいは1990年から倉庫の保存活用を巡って官民が長い時間を掛け所有権の問題、管理面の問題等々難しい調整を諦めず地道に継続して来た結果によって実ったものである。

04 横浜赤レンガ倉庫もともと横浜の中心部は横浜駅周辺と関内地区に分かれていた。その間に臨港地区が横たわり三菱重工のドック施設などが人の流れを遮断していた。

この臨港地区を横浜みなとみらい21と言う新しい町を創る事により横浜の町全体が繋がった。

みなとみらい21は「新しい横浜」と「古き良き横浜」が共存する町である。新しい横浜のシンボルが横浜ランドマークタワーとするならば古き良き横浜のシンボルが横浜赤レンガ倉庫と言っても過言ではないだろう。

倉庫としての横浜赤レンガ倉庫は特に保税倉庫としての役割が大きかった。故に建設当時の正式名称は横浜税関新港埠頭倉庫だった。保税倉庫とは外国から輸入した貨物に対し輸入税を一時保留にしたまま入れておく倉庫で一般の人は立ち入る事のできない場所だった。

しかし、現在の横浜赤レンガ倉庫は商業施設として人を惹き付ける魅力のある場所へと変貌を遂げた。

これは倉庫の役割を終えた横浜赤レンガ倉庫が「新しい横浜」と「古き良き横浜」、あるいは横浜駅周辺と関内地区を繋げる鎹(かすがい)になったとも言える。

05 横浜赤レンガ倉庫

それは立地面から見ても言える事だ。

ランドマーク側から汽車道を新港埠頭方向に向かって歩を進めると「新しい横浜」と「古き良き横浜」の境界線とも言えるナビオス横浜(横浜国際船員センター)の吹き抜け越しに横浜赤レンガ倉庫が現れる。

06 ナビオス横浜(横浜国際船員センター)↑赤レンガ倉庫方面に向かう汽車道

07 汽車道

↑ナビオス横浜(横浜国際船員センター)の吹き抜け越しに見る赤レンガ倉庫

ここへ向かって足を運ぶ人は多くいる。その逆もしかり。横浜赤レンガ倉庫で楽しんだ後に新しい横浜方面に足を運ぶ人もまた多くいる。人の流れを作り出す拠点となっているのだ。

さて、話は変わるがこのような横浜赤レンガ倉庫の素材となっている煉瓦の歴史に触れてみたい。

我々が一般的にイメージする赤いブロック形状の煉瓦(レンガ)は長崎鎔鉄所用落成(1861年)の建築資材として長崎海軍伝習所(1855年開所)で生産されたものが日本初である。

が、実は煉瓦自体は奈良時代には既に日本に存在していた。

東大寺など、奈良時代の寺院の床に使用されている「磚(せん)」と呼ばれる板である。

塼は飛鳥時代に仏教伝来と共に寺院の装飾用として導入された。中国のタイルの原型でもある。

素焼きの煉瓦は保水性が高いため常に湿気が吸着される。つまり居住空間においては湿度が上がってしまう事になる。

煉瓦は湿度の高い日本の風土に合わないのだ。これが日本では煉瓦が普及しなかった理由である。

ところが明治に入り西洋から近代文明が流入すると近代化の象徴として、また煉瓦は火事に対して強く腐らないという特性から再びして使われ出した。

しかし、それもつかの間。地震の多い日本では耐震性に問題があるためすぐに使われなくなった。かつての日本人が煉瓦を普及させなかった理由も手伝っているだろう。

では現在、煉瓦が全く使用されていないかと言えばそうではない。煉瓦の役割は建物の表面を飾る装飾のアイテムとして使用されている。つまり横浜赤レンガ倉庫と同じく人を楽しませる役割を担っていると言う訳だ。

煉瓦の歴史と横浜赤レンガ倉庫の歴史はどことなく同じような気がする。

どちらも時代の流れに翻弄されつつも自分たちの役割を方向転換した事で今も現役でいる。

方向転換の必要性は人に対しても言えるだろう。働き方など人生の大事な場面においても方向転換をする事により好機を得る事が出来るからである。

方向転換するか否か迷っている方が横浜赤レンガ倉庫を訪れる機会に恵まれたならばその歴史的背景を思い出して頂きたい。

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