萬福寺が起点となって日本に広まったものとは?

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この場所は私達を日本に居ながらにして異国の地へと瞬間移動させてくれます。

朱塗りの総門の屋根に添えられた飾りは鯱鉾(ちゃちほこ)ではなく摩伽羅(まから)と呼ばれる想像上の生物。

01 萬福寺_総門

↑総門

日本の寺院ではあまり見かける事の無い欄干に施された卍崩しのデザイン

02 萬福寺_卍崩しのデザインが施された欄干↑卍崩しのデザインが施された欄干

境内にある中国明時代末期頃の様式で造られた数々の建物。

03 萬福寺_斎堂(左)と伽藍堂(右)

↑斎堂(左)と伽藍堂(右)

04 萬福寺_大雄宝殿

↑日本では珍しいチーク材が使用された大雄宝殿(だいおうほうでん)

05 萬福寺_法堂

↑法堂

京都宇治の萬福寺は中国色が色濃く残っているお寺です。

1654年、当時63歳だった中国の僧、隠元隆琦(いんげんりゅうき)は日本からの招きにより20名の弟子と共に来日しました。

「3年後には帰国する」と言う約束を残して母国を旅立った隠元ですが後に隠元の弟子となる元妙心寺住持の龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)を含む信望者達から日本残留の強い希望が出されます。

更に、徳川幕府第4代将軍・徳川家綱(いえつな)からも崇敬を受け、幕府によって与えられた京都宇治の土地に隠元の為の新しい寺が建てられました。

1661年萬福寺の開創です。

隠元はこの寺の初代住持となり、ここに至って日本に留まることを決意し日本で生涯を終える事になります。

弟子達から受ける尊信と故郷への思い。

移動手段が発達した現代なら定期的に帰国する事も出来ますが当時の選択は隠元を深く悩ませたに違いありません。

この隠元の選択により日本に多くのものがもたらされました。

どのようなものなのでしょうか?

まずは隠元の名前に由来するインゲン豆です。その他、孟宗竹、スイカ、レンコンなども隠元によってもたらさたと言われています。

そしてこれらの食材と共に伝わったのが普茶料理(ふちゃりょうり)と呼ばれる精進料理です。

「普茶」とは「普く(あまねく)大衆と茶を供にする」という意味を示し、席に上下の隔たりなく一卓に四人が座して一品ずつの大皿料理を分け合って食べるという様式が特色です。

中華料理と同じ方式ですね。

06 普茶料理(出典:ウィキペディア)

↑普茶料理(出典:ウィキペディア)

さて、食事が済んだらお茶を飲みますね。

この時飲むお茶は概ね煎茶です。煎茶とは広義には粉末にした抹茶(てん茶)に対して茶葉を湯に浸して(煮出して)成分を抽出する「煎じ茶」のことを言います。

そして抹茶を用いる形式の茶道に対し、急須等を用い茶葉に湯を注いで飲む形式を採る煎茶道があります。

日本における煎茶道の開祖は隠元とされ現在約100流派が存在し全日本煎茶道連盟の事務局は萬福寺内に置かれ会長は萬福寺の管長が兼務することが慣わしとなっているそうです。

07 萬福寺_売茶堂(左)と有声軒(右)

↑萬福寺境内にある煎茶の中興の祖・売茶翁(ばいさおう)を祀る売茶堂(左)と茶席・有声軒(右)

食材、料理、お茶。隠元は日本の食文化に大きな影響をもたらしたと言うわけですね。

食文化以外にも隠元は日本に多くのものをもたらしています。

萬福寺の山門をくぐると最初に目に入るのが天王殿です。ここには弥勒菩薩の化身とされる布袋様が祀られています。

08 萬福寺_山門

↑山門

09 萬福寺_大王殿

↑大王殿

布袋様と言えば七福神の一つに数えられていますが七福神巡り発祥の地は京都とされ、その京都七福神巡りの布袋様に選ばれているのが萬福寺の布袋様です。

10 萬福寺_大王殿の布袋様

↑大王殿の布袋様

萬福寺の布袋様が選ばれたのは萬福→満腹→大きなお腹→布袋様となり語呂合わせが良いからなのでしょうかね?(^^)

冗談はこれくらいにして七福神巡りの発祥の一役を担っているわけですから間接的ではありますがこれも隠元が日本にもたらしたものの一つと言えますね。

さて、天王殿で布袋様にお参りした後に右手方向へ回廊伝いに進んで行くと一際目立つ大きな魚の形をした彫刻に出会います。

11 萬福寺_魚梆12 萬福寺全景↑魚梆

これは食事や法要の時間を叩いて知らせる開梆(かいぱん:開版、魚梆、飯梆などとも書く)と呼ばれ、木魚の原型となったものです。

日本では室町時代から木魚は使われているようですが隠元が来日して使用し始めた事がきっかけで本格的に使用されるようになったそうです。

ちなみに口にくわえた丸いものは煩悩を表し、魚の背をたたくことで煩悩を吐き出させるという意味合いが有るとの事です。

木魚と言えばお経が連想されますね。

そのお経を絡めて日本に広まったものがあります。

原稿用紙と明朝体です。

一切経(いっさいきょう)とは、漢文に訳された仏教聖典の総称。簡単に言えばお経の百科事典のようなもの。

この一切経が刻まれた版木が萬福寺の総門を出て歩いて3分ほどの距離にある萬福寺の塔頭の一つ宝蔵院に保存されています。

萬福寺2代目住持・木庵性瑫(もくあんしょうとう)の弟子だった鉄眼道光(てつげんどうこう)は隠元禅師が持ってきた一切経を彫刻師に彫り写させました。

この時に彫られた版木は縦に20文字、横に10文字の枠が左右に2つ並んだ形態で、これが400字詰め原稿用紙の基になったと言われています。また版木に刻まれた文字は明朝体であり、これが今日の明朝体のベースとなっているそうです。

食文化から木魚、更には印刷文化まで隠元が起点となっていると言うわけですね!

しかし、隠元が日本に広めた代表的なものはやはり何と言っても萬福寺そのものではないでしょうか。

萬福寺は黄檗宗(おうばくしゅう)の総本山であり、フルネームで表記するなら黄檗宗大本山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)となります。

12 萬福寺全景

↑黄檗宗大本山萬福寺全景

隠元は46歳の時、中国福建省の黄檗山萬福寺の住職となっています。そこから故郷の黄檗山萬福寺と同じ寺名を付けたのです。

隠元は日本における黄檗宗の開祖となり日本に広めました。そして黄檗宗は臨済宗(りんざいしゅう)、曹洞宗(そうとうしゅう)と並び日本三禅宗の一つに数えられています。

如何でしたか?沢山ありますよね。

日本は中国由来の多くのものを取り入れ日本式に変容させて来ました。日本人の得意とするところです。

現在、日本と中国との間には様々な問題が横たわっています。

これを解決するのは非常に困難で一筋縄では行かないとは思います。しかし、日本人の得意分野を生かす事が問題を解決する糸口になるかもしれません。

黄檗宗大本山萬福寺を訪れた際はそのような視点で拝観して何かヒントを見つけましょう。

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