寒風山に有るものと無かったもの

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風は何の邪魔も入る事なく自由に泳いでいます。

標高355m。男鹿半島(おがはんとう:秋田県)の付け根に位置する寒風山(かんぷうざん)には高い木々や大きな岩など無く全体が芝で覆われています。

01 寒風山

私が寒風山を訪れた時はかなりの強風だったので歩くのが大変でした。風にとっては異物が入り込んで来たようなものですね(^^)

地理学者の志賀重昂(しがしげたか:1863年〜1927年)はアメリカのグランドキャニオン、ノルウェーのフィヨルドと並んで寒風山を世界三景の一つと評しています。

02 寒風山

↑寒風山山頂にある掲示板

少し大げさな表現だとは思いますが確かに珍しい風景であり視界を妨げる物がない眼下の景色は絶景で爽快感を覚えます。そこにはかつて日本で2番目の広さを誇った湖・八郎潟の広大な干拓地も望む事が出来ます。

03 寒風山からの眺望

04 寒風山からの眺望↑寒風山からの眺望

05 寒風山からの眺望_八郎潟干拓地↑寒風山からの眺望_八郎潟干拓地

山頂の寒風山回転展望台へ行けばその高揚感を更に高めてくれる事でしょう。

06 寒風山回転展望台

07 寒風山回転展望台

↑寒風山回転展望台

以上のように表面上は何も遮蔽物の無い寒風山ですが芝の下はその大部分が安山岩で構成されています。

寒風山で採掘される安山岩は「男鹿石(おがいし)」、別名「寒風石(かんぷうせき)」と呼ばれその特徴は堅固で熱に強く且つ加工しやすいことにあるようです。

08 寒風山回転展望台展示室_男鹿石

↑寒風山回転展望台に展示してある男鹿石

その理由からでしょう、男鹿石は600年ほど前から墓石や供養石として使用され、江戸時代中期から本格的に採取・開発利用が始まり今も尚、墓石を含め庭石や護岸など人々生活の中に溶け込んでいます。

「能ある鷹は爪を隠す」。。。。。優秀な男鹿石を表面から見えないようにしている寒風山はそんなことわざの似合う山と言えるかもしれませんね(^^)

さて、男鹿石、つまり安山岩はマグマが冷えて固まった岩石である火成岩(かせいがん)の一種です。となると寒風山は火山だったと言う事になります。

寒風山の火山活動は今から3万年以上前に始まり、何度も繰り返された活動で安山岩の溶岩が積み重なって次第に大きくなることで今の形になったと言う事です。

そのため現在も噴火口跡を見ることができます。

09 寒風山_噴火口

↑噴火口跡

では最後に寒風山が噴火したのはいつ頃なのでしょうか?

寒風山は1810年に噴火したと言う記録が江戸幕府に提出された公式文書に残っているそうです。

ところが専門家の検証では噴火は無かったと結論づけられています。

どう言う事なのでしょう?

幕府への偽りの報告は農作物の被害を水増し申告するための布石として提出されたと考えられているそうです。

この時代、寒風山を含む現在の秋田県は久保田藩の領地でした。

そして、1810年に噴火の記録を幕府に提出した時の久保田藩の藩主は9代目・佐竹義和(さたけよしまさ)です。

佐竹義和は米沢藩(山形県)の上杉鷹山(うえすぎようざん)と並ぶ藩政改革の成功者として知られています。

その改革は多岐に渡り教育面では藩校を創設。漆、桑、楮(こうぞ)、藍、紅花、菜種などの育成、蚕の生産など国産奨励に努め、更には銅山改革、林政改革なども行なっています。

能代市の漆器・能代春慶(のしろしゅんけい)や角館の桜皮細工(かばざいく)、秋田県指定の無形文化財となっている秋田畝織 (あきたうねおり)などは義和が藩主の頃に芽生えた特産品です。

このような政策を鑑みると寒風山の噴火の報告も義和の指示だったのでしょう。

「嘘も方便」。。。。。これで藩の住民の生活が少しでも楽になったならば英断だったと言えますね。

因みに義和の改革は藩史の編纂にまで及んでいます。

これに関連付けてなのかどうかは分かりませんが旅行家であり博物学者の菅江真澄(すがえますみ)に出羽国の地誌を作って欲しいと依頼しています。

この地誌の編纂のために寒風山に訪れたのかは定かではありませんが真澄の遊覧記「男鹿の秋風」には寒風山について触れられています。

10 寒風山_「男鹿の風」

↑寒風山にある「男鹿の秋風」の掲示板

実在する安山岩を覆い隠して無いように見せている寒風山。逆に実際には無かった寒風山の噴火を有った事として幕府に報告するよう指示を出したであろう義和。両者は切っても切れない縁なのかもしれませんね。

寒風山に訪れた際は物事の有無を上手く使い分ける事の必要性を学びましょう。

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