波あらふ ころもが浦の 袖貝を みぎはに風の たたみおくかな
(現代語訳:衣の浦ゆかりの袖貝は、波にも洗われ、風に打ち寄せられても 波打ち際に袖を畳んだようにきれいに並んでいたりする)
平安時代の僧侶・西行法師の詠んだ歌です。
ころもが浦とは愛知県三河湾西部・知多湾部の湾入に位置し現在の衣浦港(きぬうらこう)の辺りを指します。
西行法師はこの歌を貝合わせ(貝の裏に描かれた絵柄を合わせて競う遊戯)の席で代役として詠んでいるため、実際に現地に赴いて詠んだ歌ではないそうです。
古くからこの地域の名が知れ渡っていた事が分かりますね。
そんな衣浦港へ流れ込む川の一つに十ヶ川(じゅっかがわ)があります。
江戸時代この十ヶ川の下流に位置する半田の町では良質な水や澄んだ空気などに恵まれていた事に加え徳川御三家や尾張藩の奨励もあって酒や酢を主とした醸造業で大いに栄えていました。19世紀半ばには75軒もの酒造家がひしめき合っていたそうです。
特に十ヶ川の入江に近い一部の区間は半田運河として利用され江戸や大阪へ多くの物資が運び出されていました。
酢で有名なミツカンや日本酒の國盛などを製造する中埜酒造は現在も半田運河沿いに本社を置き、黒壁の醸造蔵は情緒ある景観を造り出しています。
↑ミツカン本社
↑半田運河とミツカンの醸造蔵
↑半田運河と中埜酒造の醸造蔵
運河を望みながら目を閉じれば当時の賑わいがイメージとして膨らんで来ます。
また、隣接するミツカンミュージアムや國盛酒の文化館などでは酢や酒の歴史を学ぶ事ができ、半田運河に訪れた際には寄って頂きたい場所の一つとなっています。
↑ミツカンミュージアム
↑國盛酒の文化館
さて、十ヶ川の下流部以外の流域には並行して流れる川があります。阿久比川(あぐいがわ)です。
この阿久比川の中流部は完全な天上川の為、当時半田の町は大雨による洪水の被害をたびたび受けました。また、その時に溜まる土砂の堆積で河口付近の水深は浅くなり船舶の運行に支障をきたしていました。
これらの問題を解決する為に排水路の役割として整備されたのが半田運河です。
特に1855年8月に未曾有の大水害が発生した際にミツカンの三代目中野又左衛門(なかのまたざえもん)が手がけた延長約570m、幅33mの大改修は治水と海運の問題を一挙に解決したそうです。
さて話は変わりますが、今や全世界に広がり日本食を代表する料理となった寿司。その寿司に欠かせないものが酢です。そして寿司の発展に大きく貢献した酢が半田運河から江戸へ運ばれていた酢です。
日本で古来より作られてきた寿司は「熟(な)れずし」です。熟れずしは米や麦に魚を漬け込んで発酵させて作ったもの。従って熟れずしの酸味は発酵の過程で出来る乳酸菌の酸味であり酢による酸味ではありませんでした。
有名なものに滋賀県の名産品にもなっている「鮒ずし(ふなずし)」がありますね。
私も食べた事がありますがチーズのような感じでした。
江戸時代後期になるとネタと酢飯を使った、今の握りずしの原型となる「早ずし」が流行します。
一方この頃半田では、元々造り酒屋を営んでいたミツカンの創業者・初代中野又左衛門が酒を造る際に出る酒粕を利用して粕酢の製造を始めていました。
↑粕酢の発酵工程(ミツカンミュージアム)
又左衛門は江戸の町で早ずしが流行っている事、そして使っている酢は当時高価だった米酢である事を知ります。
そこで米酢より安価な酒作りの副産物である酒粕を使った粕酢を江戸の町へ売り込みをかけました。すると旨みや風味が早ずしに合うと評判になり江戸の寿司に欠かせないものとなったそうです。
半田の酢が日本の料理を代表する寿司の発展に大いに役立ったと言う事ですね。
↑粕酢を使った江戸前寿司(ミツカンミュージアム)
現在のすし酢は透明ですが、これは戦後になってすし飯に色がついていては古古米のように見える為、透明な酢が求められるようなったからだそうです。
ところで米酢と比べて安価だった事から早ずしに使用され始めた粕酢ですが、現在では酒粕の値段が高く、また貯蔵熟成発酵管理も大変なことから高級品となっています。逆にすし酢は米酢がベースとなっています。
逆転現象が起きていますね(^^)
時代の流れによって物の価値も入れ替わると言う良い事例と言えるでしょう。
寿司の発展に寄与した粕酢。その粕酢を江戸に送り出した半田運河。
酢と半田運河は切っても切れない縁と言う事ですね。
全長5.15km、流域面積8.6㎢の半田運河は名古屋市立大学大学院教授の瀬口哲夫氏により小樽運河(北海道小樽市)・堀川運河(宮崎県日南市)と並び成立の経緯や美しさで選んだ「日本三大運河」の一つとされています。
半田運河沿いを歩き、その風情ある景色を楽しみましょう。