看板娘や名物女将が客を引き寄せ店や旅館を繁盛へと導いている事は往々にしてあるでしょう。
幕末、京都と大坂を結ぶ宇治川へつながる運河・濠川のほとりに船頭を多く抱え、船足も早いと評判の船宿がありました。
↑濠川
江戸時代初期から営まれて来た京都伏見の老舗旅館・寺田屋です。
↑寺田屋
その寺田屋を一人で切り盛りしていた女将がいます。
お登勢(おとせ)です。
近江国大津(現在の滋賀県大津市)の旅館の次女として生まれたお登勢は18歳で寺田屋の第6代目主人寺田屋伊助の元へ嫁ぎました。しかし伊助は放蕩者だった為、お登勢が代わりに店の運営を取り仕切ります。伊助は病にかかり35歳で若死にしますがその後もお登勢は女将として家業を続けました。
そんなお登勢の接待目当ての客も多く薩摩藩も早くから寺田屋を定宿にしていました。
このお登勢が引き寄せた薩摩藩がきっかで寺田屋とお登勢は二つの騒乱に巻き込まれる事になります。
後に倒幕へと進む薩摩藩。その頃の藩主は島津忠義(しまづただよし)でしたが実権を握っていたのは実父の島津久光(しまづひさみつ)でした。その久光は公武合体(幕府と朝廷が一体となって政策を推し進める考え方)を推し進めます。
これを知った倒幕を望む薩摩藩の過激派は諸藩の尊王派の志士たちと共謀し関白・九条尚忠(くじょうひさただ)と京都所司代・坂井忠義(さかいただあき)を襲撃し、その首を久光に報じることで倒幕を促そうとします。その計画を遂行するための集結場所として選ばれたのが寺田屋でした。
これを知った久光は側近達を派遣し説得を試みますが失敗。遂に1862年5月21日、薩摩藩同士の激しい斬り合いが勃発。計画に加わった者から多数の犠牲者が出てこの事件は終結します。
これを「寺田屋騒動」と言います。
この時お登勢はかまどの裏に子供達を隠し一人で帳場を守り、騒動後は天井に飛び散った血を拭き取り、ふすまや畳は全て取り替え翌日から通常の商いを始めたそうです。
肝の据わった豪快な女性だったのですね(^^)
もっとも、そうでもなければ血気盛んな幕末の男達の世話など出来ませんが。
さて、お登勢が引き寄せた薩摩藩ですがその薩摩藩の導きにより寺田屋に宿泊していた人物がいます。
坂本龍馬です!
薩長同盟の会談を斡旋した龍馬は幕府に狙われる身となります。お登勢が薩摩藩から龍馬の庇護を依頼された事により寺田屋は龍馬の宿泊先となります。これが再び寺田屋に事件を呼び込む事に。。。。。
1866年3月9日、寺田屋は龍馬の居所を嗅ぎつけた幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれます。
これにいち早く気付いたのが龍馬の妻・お龍(おりょう)です。
入浴中だったお龍は袷(あわせ)一枚を羽織って2階へ駆け上がり龍馬に危機を伝えました。
捕り方に踏み込まれた龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で応戦。一緒にいた長州の三吉慎蔵(みよししんぞう)は手槍を用いて応戦します。しかし、龍馬が拳銃を持つ手に刀傷を負った為、三吉と共に脱出。九死に一生を得ることができました。
これを「寺田屋遭難」と言います。
以上二つ総称を「寺田屋事件」と言いますが特に龍馬の寺田屋遭難は有名ですね。現在京都伏見にある寺田屋ではその時の様子を垣間見ることが出来ます。
↑龍馬が襲われた部屋
↑オオーッ!弾痕と刀痕!
↑お龍が駆け上って来た階段
↑お龍の入浴したお風呂♡♡♡
↑お登勢の部屋
実はこれら全て復元されたものです。
私はそうとは知らず本物と思っていましたが詳細は記されていないもののパンフレットには復元したと書かれています。パンフレットは見学前にしっかり目を通した方が良いと言う事ですね。
後に調べてみると当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の建屋は元の場所の西隣に再建されたものと分かりました。
本物でないと知った時は少々がっかりしましたが、少しの期間とは言え本物と思い込んで感動した事も事実です。
ディズニーランドに行けばヨーロッパの街並みを模したエリアで食事をしたりして楽しみますよね。
現在の寺田屋もテーマパークとして捉えればそれなりに楽しめられるのではないでしょうか?
この寺田屋、実際に泊まる事も出きます。ですから少々こじつけかもしれませんがディズニーランドで言えばオフィシャルホテルのようなものです(^^;
例え本物でなくてもプラス発想をして良い体験が出来たと思った方が得と言う事ですね。
さてお登勢のその後ですが寺田屋遭難から10年後の1877年に49歳の若さで無くなっています。
一方、鳥羽・伏見の戦いで消失した寺田屋は息子夫婦がお登勢の貯めていたお金で再建し、1906年に営業を再開したと言う事です。
現在の寺田屋は当時のものではないとは言うもののお登勢の意志は継がれていると言えるでしょう。
そのような意味で現在の寺田屋は歴史の1ページを垣間見させてくれる貴重な存在と言えるかも知れませんね。