何でもそうだが1番と言うのは注目されるが2番以降はなかなか着目されない。
姫路城は国宝であり世界遺産にも登録されている有名な城の為、その築城主にも光が当たる。
現在私達が見る姫路城の初代城主は池田輝政(いけだてるまさ)である。
輝政は1600年、関ヶ原の戦いの戦功により徳川家康より播磨一国52万石が与えられ姫路藩の初代藩主となり姫路城の築城に着手した。
姫路藩は輝政の長男・利隆(としたか)。利隆の長男・光政(みつまさ)と3代続いたが光政が幼少だった為、それを理由に1671年、因幡鳥取32.5万石へと転封させられた。
とは言え姫路藩の初代藩主は池田氏である事に変わりは無い。
そこで今回はあまり着目される事は無いであろう姫路藩の晩年の藩主・酒井氏に光を当ててみたい。
酒井氏は1749年から1871年の廃藩置県までの122年間、10代の藩主を勤めた。
『隣の芝は青い』
酒井氏は姫路藩の芝が青く見えてしまった。
酒井忠恭(さかいただずみ)は前橋藩15万石の9代目藩主だった。
忠恭が藩主に着いた頃の酒井氏の財政は悪化していた。更に大暴風雨による被害や度々起こる利根川の氾濫により藩の財政は圧迫されていた。
一方、姫路藩は同じ15万石でありながら実際より豊かと言われていた。
この事から忠恭は家老が計画した姫路藩へ移封と言う案に便乗し1749年、それを成功させた。
ところが姫路藩の財政は非常に厳しかった。
『飛んで火に入る夏の虫』
池田輝政が初代藩主となった時の姫路藩は52万石であったがその後、代が変わるごとに減封となり15万石となった。
姫路城は52万石の時代に築城された城である。その城を15万石の藩が支えていかなければならない状態だった。加えて譜代という格式の高さ故に幕政へ参与する事を余儀なくされ、それらによる出費が嵩み財政を圧迫させていたのである。
『庇(ひさし)を貸して母屋(おもや)を取られる』
この財政難の姫路藩を救った人物が河合道臣(かわいみちおみ)だった。
道臣は1808年、財政担当役に任ぜられ、改革に取り組んだ。
非常用食糧備蓄倉庫の固寧倉(こねいそう)の設置。また、新田開発や港の整備などにより米流通のインフラを整えた。あるいは特産品である木綿の専売制の導入もした。
これらの施策により借金を完済した。
この時代、財政難に見舞われる藩が多い中、借金を完済したと言うのは賞賛に値すべき事だと思う。
道臣は私財を投じて仁寿山黌(じんじゅさんこう)と言う私塾を設立している。歴史家、思想家、漢詩人、文人である頼山陽(らいさんよう)らを講師として招き国学、漢学、医学などを教えた。
仁寿山黌は1841年に道臣が死去すると翌年の1842年、酒井氏の5代目として藩主になった忠学(ただのり)の時に医学寮以外は藩校の好古堂(こうこどう)に吸収され廃塾となった。
因みに、好古堂は忠恭が前橋藩から姫路藩へ移封した時に併せて移設した藩校である。
藩の財政を立て直した道臣にとっては庇を貸して母屋を取られたような格好になったわけだ。
『終わり良ければすべて良し』
姫路城の西側に姫路市の市制百周年を記念して建造された約1万坪の日本庭園がある。
この庭園を好古園(こうこえん)と呼ぶ。名前の由来は現在の庭園入口付近にかつて存在した好古堂から来ている。好古園の特徴は古地図「姫路侍屋敷図」を基に特別史跡地の姫路城西御屋敷跡で発掘調査で確認された西御屋敷(1618年造営)・武家屋敷等の遺構をそのまま生かして作庭されている事にあると思う。
それでは好古園の美しい庭園を散策してみよう。
姫路藩の最後の藩主となった酒井氏の創設した好古堂の名前は現在まで引き継がれ姫路市の観光名所の1つになっている事は間違い無い。2017年3月には入場者数が500万人を超えたそうだ。
終わりよければ全て良しと言えるだろう。
好古園は姫路城と比較したら有名ではない。しかし、冒頭で「何でもそうだが1番と言うのは注目されるが2番以降はなかなか着目されない」と書いたが1番のネームバリューに便乗すればそれなりに着目されると言う事を証明している。
姫路城に訪れた際は、庭園としては申し分ない好古園にも是非足を運んで頂きたい。