街道に足を踏み入れた瞬間に「あー、来て良かった」と必ず思うだろう。中山道六十九次42番目の宿場、妻籠宿(つまごじゅく)である。木のぬくもりやどことない懐かしさによって心は癒される。
この懐かしいと言う感覚は基本的信頼感によって生まれるらしい。
基本的信頼感とは心理学的には「人生の最初の時期に人間が獲得する人間関係を形成する上で最も大切な基本的な感情」とあり「赤ちゃんは、『この世に受け入れられているんだ、信頼してもいいんだ』と感じて安心出来ると、自分の生と自分を取り巻く世界を受け入れて、その信頼感を自分の心の土台にしていく」と言う事だ。
現代の日本人が妻籠のような街並みの中で育つ事は殆どないであろう。それでも懐かしさのようなものを感じるのは基本的信頼感が私たちのDNAの中に長い年月をかけて蓄積されて来たからに違いない。
さて、妻籠宿についてである。
妻籠宿の集落的発祥がいつ頃なのか定かではない。しかし、妻籠と言う名は室町時代には以下の内容で登場しているとの事だ。
「1432年、室町幕府から木材の用立てを命じられた美濃国の守護大名土岐持益(ときもちます)の指示に従い妻籠宿周辺を拠点とした妻籠氏が対応した」
現在の宿場町の原型が出来上がったのは戦国時代に木曽義仲(きそよしなか)の末裔とされる木曽氏が妻籠を含む木曽地方一帯を掌握し街道の整備を行った頃と推測される。
その木曽氏は戦国時代を通して覇権争いに翻弄され続ける事になる。
この地方は武田氏、織田氏の勢力争いの渦に巻き込まれ、木曽氏は武田氏の軍門に下る。しかし、武田氏の形勢が悪くなると織田氏に与するも、その織田氏の当主であった信長は本能寺の変で絶命。
その後は豊臣氏と徳川氏の間を彷徨う。
小牧長久手の戦い(1584年)で秀吉と和睦した家康は関東へ移封となる。最終的に徳川氏に従っていた木曽氏もその移封に伴い関東へ移った。
木曽氏は関東へ移った。しかし、当たり前のことだが妻籠の街はそのまま残された。
それでも徳川氏との関わりは無くなることなく継続される。
関ヶ原の戦い(1600年)に参戦するため進軍中だった徳川秀忠(とくがわひでただ:後の徳川幕府2代目将軍)は妻籠で東軍の勝利を知ったと言われている。
妻籠は戦国時代の最後を締め括った徳川氏と共に戦国時代の最後を過ごした事になる。
その徳川氏は江戸時代に入り五街道(ごかいどう:東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)を整備した。妻籠宿はこの時、正式に中山道の宿場町として認められた。
以上が大雑把ではあるが妻籠の歴史である。
それでは少し、街道沿いを散策してみよう。
↑本陣
↑脇本陣奥谷
↑妻籠宿の街並み
情緒の漂う美しい街並みと誰もが感じたのではないだろうか?
情緒を辞書で調べると「人にある感慨をもよおさせる、その物独特の味わい。また、物事に触れて起こるさまざまな感慨」とある。
情緒は文学や芸術などで扱われる熟語であり科学研究の対象とは遠い位置関係にある。
しかし、最近では情緒を研究し、工学の分野に生かそうとする情緒工学と呼ばれる学問で扱われている。
情緒工学は「バイオニクス(生物の優れた機能を取り入れた機械やシステムの開発を目的とする工学の一分野)の立場から情緒のコントロールを研究するものと、情緒を安定化するための環境操作の技術を究めるという二つの分野をもっている」との事だ。
情緒工学的に言えば妻籠は情緒を安定化する要素を持つ街並みを保持していると言えるだろう。
戦国時代に時の権力者に振り回された妻籠は情緒の安定化を図る為に江戸時代の平和な期間中、知らず知らずのうちに情緒工学の要素を取り入れ基本的信頼感を持った街並みを形成したのかもしれない。
1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれた事がその結果の現われであろう。
何かを残したいのであれば情緒を保持し信頼感を得る事が重要なポイントとなる事を示唆しているように思える。