豊富な水を湛えた揖斐川(いびがわ)と長良川(ながらがわ)は寄り添いながら伊勢湾へと注がれている。
この二つの川は河口間近で合流する。
その合流地点に位置する赤須賀漁港では伊勢湾の河口周辺で獲れる桑名(三重県)の特産品が水揚げされる。
蛤(はまぐり)である。
この漁港の歴史は古く、室町時代にまで遡る。1561年に三河国額田郡市場村(現愛知県幸田町(こうたちょう))から移住した武将達が漁業を始めた事に由来するらしい。
↑赤須賀漁港
蛤の獲れる干潟は戦後の高度成長期に埋め立てや防潮堤の建設、あるいは地下水の汲み上げによる地盤沈下などの影響によりその多くが失われ、漁獲量が激減し危機的状況に直面した。
しかし、地元の漁師達の長年の努力による養殖化、出漁制限・漁獲規制等々によって復活の兆しを見せている。
赤須賀漁港にある「はまぐりプラザ」では蛤に関する資料が展示されている。また、蛤の料理を食べる事も出来る。蛤に特化した施設が存在する事はこの地域の人達の蛤に対する思い入れが感じられる。↑はまぐりプラザ
↑はまぐりプラザの展示室
蛤の料理は、はまぐりプラザ以外にも桑名市内のところどころで楽しむ事が可能だ。
私も蛤の料理を食べたが身がプリプリしていてとても美味しかった。↑蛤の料理
さて、以上の話だけでも桑名は名実ともに日本屈指の蛤の産地と分かって頂けると思うが更に桑名と蛤にまつわる話を幾つか上げてみよう。
江戸時代の元禄年間(1690年頃)から赤須賀漁港周辺で製造されているものがある。
時雨蛤(しぐれはまぐり)だ(「志ぐれ蛤」と表記されることもある)。
時雨蛤は佃煮の一種で佃煮に生姜を加えたものである。
時雨蛤は10月の時雨の降り始める頃から製造される事から、松尾芭蕉の高弟、各務支考(かがみしこう)が時雨蛤と命名したと言う事だ。
当初、時雨煮は時雨蛤を指していたが現在は生姜入りの佃煮全般を時雨煮と呼んでいる。桑名発信の全国区の食べ物と言えるだろう。
↑赤須賀漁港近くの時雨煮の店と蛤
あるいは、「その手は食わない」と「桑名」を掛けて「その手は桑名の焼き蛤」と言う有名なシャレがある。江戸時代から既に使われているそうだ。それだけ桑名で蛤が獲れていたと言う証拠だろう。
「東海道中膝栗毛」の中では弥次郎兵衛・喜多八も、桑名で焼き蛤を肴に酒を飲んでいる場面が登場する。
その内容は下ネタなのでここでは書けないがどうしても知りたい方はネットで調べて頂きたい。
幕末に桑名藩は有名な禁門の変(きんもんのへん)で会津藩と共に幕府軍に加わり長州藩掃討の主力を担っている。
禁門の変は別名で「蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)」と呼ばれている。
少々こじつけな感もあるが日本の歴史の重要な場面でも桑名は蛤と関わっている。
以上、桑名と蛤は切っても切れない関係にある事がお分り頂けたのではないだろうか。
さて、突然だが自然界に存在する不思議な現象の一つに蜃気楼がある。
現代ではその原理も科学的に解明されているが昔の人達にとってはさぞかし謎めいた現象だったであろう。
だからこそ何かにその原因をこじつけて納得しようとした。
蜃気楼の蜃(しん)は、蜃気楼を作り出すと言われる伝説の生物を意味するそうだ。
よって蜃気楼の名は「蜃」が「気」を吐いて楼閣(ろうかく)を出現させると考えられたことに由来する。
では蜃とはどのような生物なのだろうか?
その生物は竜の一種とする説ともう一つ別の説がある。
それが巨大な蛤と言う説である。
江戸時代の百科辞典「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」にその事が記載されているそうだ。
浮世絵にも描かれている。↑歌川国貞作「春季蜃気楼」
昔の人は何と想像力に富んでいた事か。
蜃気楼と言えば魚津市(富山県)が有名だが江戸時代には伊勢湾が蜃気楼の名所として有名だったそうだ。
と言う事は伊勢湾の蜃気楼は桑名の蛤が発しているのだろうか?
偶然なのかもしれなが興味深い一致である。
伊勢湾の蜃気楼と桑名の蛤は何も知らなければ関連性を持たす事は出来ない。
色々な知識を得ると何らかのアイデアが生まれる可能性が高くなる。
伊勢湾の蜃気楼を造る蛤として桑名の蛤を宣伝したらもしかしたらヒット商品になるかもしれない。
桑名に訪れた際には是非とも蛤を堪能して頂きたい。