更なる進化があるかもしれない中津万象園

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例えば故郷や幼い頃の思い出を残そうと思った場合、現代に生きる我々は写真や映像の力を借りるでしょう。

一方、その様な技術が無い時代の人々にとっては絵画が一般的な手段ではなかったのではないでしょうか。

しかし、讃岐丸亀藩2代藩主であり丸亀藩京極氏4代目の京極高豊(きょうごくたかとよ)は異なる方法を取りました。

高豊は京極氏の故郷である近江国(現在の滋賀県)の近江八景になぞらえ、琵琶湖を型どった八景池に八つの島を配する池泉回遊式大名庭園(ちせんかいゆうしきだいみょうていえん)を築いたのです。

それが中津万象園(なかづばんしょうえん:香川県丸亀市)です。

高豊がなぜ中津万象園を造ったのかその理由は定かではありません。おそらく彼は先祖の思いを汲み取り京極氏の故郷を形としとして残したかったのでしょう。

そんな中津万象園ですが明治の廃藩置県後、持ち主が転々と移り行く中で管理が愚かになり南海大地震では地盤沈下と言う大打撃を受け荒廃の一途を辿りました。

しかし、1970年(昭和45年)に転機が訪れます。当時の持ち主の意志により復元計画が浮上し、1982年(昭和57年)その美しい風景は復活したのです。

美しいもの、無くてはならないと判断されたものは蘇ると言う事なのでしょう。↑樹齢600年と言われる大傘松

さて、高豊ですが武士でありながら文化人としての要素を持ち合わせていました。

高豊は南坊流の茶人であり、そして絵画に非常に堪能であったと言われています。

江戸時代前期の陶工である野々村仁清(ののむらにんせい)に狩野派の絵師田中八兵衛が描いた下絵を渡しその絵を表面に再現した茶壺を作らせたと言う文書も残されているそうです。

絵画に堪能であった茶人が茶壺に絵を描かせたと言うところに高豊のこだわりを垣間見ることが出来ますね。

茶と言えば庭園の一角には江戸時代に建てられた現存日本最古の煎茶室「観潮楼」が残されています。

↑観潮楼

高床式のこの茶室から海の潮の満ち引きが見えた事が名前の由来となっています。

そうなんです、中津万象園の横には瀬戸内海の海が広がっているのです。

だからなのでしょう、中津万象園は日本三大海浜庭園の一つに数えられているそうです(但し、調べたのですが他の二つがどこか分かりませんでした)。

海浜庭園の明確な定義は分かりません。しかし、上記の事から海浜庭園と呼ばれるに相応しい庭園である事は分かりますよね。

海浜庭園と似たような言葉に海浜公園があります。

海浜公園とは海辺での自然体験学習、レクリエーションを目的に作られた自然公園を指します。

庭園の片隅に「石投げ地蔵尊」と呼ばれるお地蔵様が祀られています(現在のお地蔵様は1842年の大洪水で流されて紛失したものを復元したものです)。↑石投げ地蔵尊

かつて漁師、農夫、商人は園外から園内のこのお地蔵様に願い事を書いた石を投げ入れお参りしていたとの事。

庭園内から海が見渡せ、身分制度が厳しかった時代に園外からとは言え庭園の一部を武士以外の民が利用出来た。しかも投げ石という遊び心も見え隠れします。中津万象園はある意味、海浜公園の元祖と言って良いかもしれませんね。

最後にもう一つ。

中津万象園の万象は森羅万象から来ています。

森羅万象は、あらゆる現象、宇宙に存在する一切のものを意味します。

現在の中津万象園内にはフランスの画家、コロー・クールベとミレーを中心とするバルビゾン派の絵画を展示している絵画館やイラン・イラクを中心に出土した紀元前2500年頃から13世紀頃までの土器・陶器・ガラス器が展示されている陶器館。あるいは丸亀の特産品であるうちわが展示されているうちわの里も併設されています。↑陶器館↑うちわの里

海浜公園の元祖とも言える中津万象園はもしかしたら将来的には何でも見る事の出来る一大アミューズメント万象館へと進化しているかもしれませんね(^^;

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