もの事はどこでどのようにつながりどんな影響を及ぼすのか分からない。
「風吹けば桶屋が儲かる」はそれを端的に表したことわざと言えるだろう。
砺波平野(となみへいや)の端に位置する南砺市(富山県)の井波(いなみ)地区では毎年4月から5月にかけて風速10m近くの風が吹く。
日本海に低気圧が入り込むと南の気流が中部山岳地帯を越して日本海側に下降して来る。いわゆるフェーン現象の事だがこの地方では井波風と呼んでいる。
この井波風によってある特産品が生まれた。
井波のシンボルとも言える瑞泉寺(ずいせんじ)は1390年、浄土真宗本願寺第5代・綽如(しゃくにょ)によって創建された寺である。↑瑞泉寺_本堂
南北朝時代、中国から難解な国書が送られて来たが誰も解読できず綽如に回って来た。綽如が読み解くとそこには「富士山を持って参れ」と記されていた。
綽如は「富士山を包めるほどのものを頂けるのであれば、持って行きます」と返書の草稿を書いた。
何と機転の効いた回答だろう。
解答の内容いかんで日本は攻撃されるところだったがその後何も起こらなかった。
綽如の才覚と功績を認めた時の天皇・後小松天皇は後に綽如が寺の建立を願っている事を知るとそれを許した。
そして建てられた寺が瑞泉寺である。
瑞泉寺は北陸の浄土真宗信仰の中心として多くの信者を集め越中の一向一揆においては重要な拠点となった事もある。
このような成り立ちを持つ瑞泉寺の細部に目を向けるとその彫刻の繊細な美しさに心を奪われる。
寺院建築に彫刻は付き物だが瑞泉寺の彫刻は格別である。
↑瑞泉寺本堂の彫刻
この寺社彫刻の技法は、井波に住む人々に受け継がれ特に欄間においては井波彫刻(いなみちょうこく)・井波欄間として大阪欄間と並び1975年に通商産業大臣から伝統的工芸品の指定を受けている。
最近では2018年(平成30年)6月に復元された名古屋城本丸御殿の上洛殿将軍御座所に井波の彫刻師が透かし彫り手法で制作した欄間が用いられている。
それほどまでに井波彫刻の技法は優れていると言う証である。
瑞泉寺へ続く八日町通りには「井波彫刻」の工房が軒を連ね街の所々に彫刻が見られる。↑八日町通り↑八日町通りの彫刻
この雰囲気はこの町でしか味わうことが出来ないだろう。
なぜ井波では彫刻が盛んになったのだろうか?
瑞泉寺は過去に幾度も焼失し、その都度再建されて来た。江戸時代中期の本堂再建時には京都の本願寺から彫刻師・前川三四郎が派遣され、この時地元の大工らも加わり彫刻の技法を本格的に習った。
ちなみに山門正面の梁の龍は、前川三四郎によって彫られたもので、1879年(明治12年)大火に見舞われた時、近くの傘松に登って水を吐いたので山門が焼け残ったという言い伝えがある。
幾度も焼失した瑞泉寺にとっては山門の龍は守り神と言えよう。↑瑞泉寺_山門↑山門の龍の彫刻
匠の技は代々受け継がれ江戸時代末までは主に神社仏閣の彫刻をする事によって磨かれて行った。明治に入ると寺院の欄間の技術を活かした住宅用の欄間が井波彫刻の形態として洗練されて行った。
1918年(大正7年)に綽如が後小松天皇から下賜された聖徳太子二歳像を本尊とする太子堂が再建されている。
この建物は井波の彫刻師達の技の粋を結集して建てられたものである。↑瑞泉寺_太子堂↑太子堂の彫刻↑案内板まで彫刻
現在、井波では300人近い彫刻師が活躍している。1箇所にこれだけの人数の彫刻師が集まる地域は世界的に見ても珍しいそうだ。
「転んでもただでは起きぬ」とは、例え失敗しても、そこで利益になるものを得ることの例えである。度重なる火災は彫刻の技術を洗練させた。
さて、井波が彫刻の町となった理由は度重なる瑞泉寺の火災に端を発するがその火災の延焼の理由が井波風である。
瑞泉寺の門前には高さ約5m、全長100m程の石垣がある。この石垣は一向一揆の拠点であった事から城壁と思われがちだが実は防火壁だ。↑瑞泉寺の防火壁(左)
どれだけ火災の延焼に気を配っていたのか伺い知る事が出来る。
「風が吹けば桶屋が儲かる」
井波風がもたらした彫刻の美を堪能しよう。
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