いにしえの気配が柔らかく肌を包み込む。
迫力がありながらそこに威圧感のようなものは無くどちらかと言えば心に穏やかさをもたらしてくれるだろう。
興福寺の東金堂(とうこんどう)とその背後に堂々と屹立する五重塔はそのような雰囲気を漂わせている。
↑興福寺_東金堂と五重塔
しかし、これは現代に生きる我々の感覚である。
創建当時は日本史上最大と言える氏族「藤原氏」の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇っていたからおそらく圧制的な様相を呈していたと想像出来る。
興福寺は大化の改新(645年)の中心人物であり藤原氏の始祖である中臣鎌足(なかとみのかまたり:後の藤原鎌足)が重病を患った際、夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が夫の回復を願い山背国(やましろこく:現在の京都市山科区)に釈迦三尊を安置するために造営した山階寺(やましなでら)に起源を持つ。
山階寺は飛鳥に移され厩坂寺(うまやさかでら)と名前を変え、710年に鎌足の次男・藤原不比等(ふじわらのふひと)が平城京遷都と共に現在の地へ移建し興福寺と改号した。
境内の中央で東金堂、五重塔のシックな彩とは対照的に一際鮮やかな朱に覆われた建物がその容姿を誇示している。
中金堂(ちゅうこんどう)である。
↑興福寺_中金堂
興福寺の中心的建造物であるこの建物は過去に幾度となく焼失と再建をくり返して来た。
最後の焼失は1717年だが、約100年後の1819年に建立された仮講堂(かりこうどう)は従来のものより一回り小さかった。↑興福寺_仮講堂
それから300年の時を経て2018年に奈良時代の建築様式を踏襲した堂々たる姿を我々の前に見せた。
それが現在の中金堂である。
古都奈良を飾る名所として焼失する事なく今後何百年も引き継がれて行く事を願いたい。
さて、東金堂、五重塔、中金堂と同じ視界の範囲内に南円堂が存在する。↑興福寺_南円堂
南円堂と名がついているのには理由がある。
南円堂の北側にもう1つ同じ形をしたお堂が存在するからだ。
これを北円堂(ほくえんどう)と呼ぶ。↑興福寺_北円堂
実はこの北円堂こそが1210年頃に建立された興福寺最古の建造物であり、日本に現存する八角円堂の中で最も美しいとされている建物なのだ。
そして、この北円堂と共に寺内最古の建物がもう1つある。
三重塔だ。↑興福寺_三重塔
この塔は謎が多く他の堂塔のような記録が残されていないそうだ。だから建造目的も、なぜ現在の位置に建てられたかも明らかにされていない。従って建造時期も建築様式や技法から推定しているそうだ。
北円堂も三重塔も少し目立たない場所にある為、他の建物に圧倒されて見落としがちだが価値ある建物だ。
何事もそうだが人が注目しないようなところに意外な価値が潜んでいるのではないだろうか?
ところで三重塔は謎に包まれているが「塔」と言う視点から興福寺を眺めると興味深いものが見えてくる。
往時の塔が同じ寺内に2つ残されているのは葛城市(奈良県)の当麻寺(たいまでら)と興福寺だけだそうだ。薬師寺(奈良市)にも二つの塔があるが西塔は1981年に再建したものだから往時の塔とは言えない。
また、興福寺の塔は東が三重塔と西が五重塔と左右非対称となっている。塔が2つ存在した寺院では左右対称と言うのが一般的だから珍しい。
興福寺の五重塔から半径約1.5km以内にはかつて7基の塔が建っていた。
東大寺に東西の七重塔。元興寺の五重塔。春日大社の東西に五重塔。そして興福寺の2塔である。
しかし興福寺の2塔を除いてすべて消失してしまっている。
残された興福寺の五重塔は高さ50.1mあり、京都の東寺に次いで日本で2番目の高さを誇る。↑興福寺_五重塔
現在、奈良市の条例では景観維持の為、興福寺の五重塔より高い建物はNGとなっているそうだ。
そのような観点からすると興福寺の塔は奈良の景観を造る基準とも言える。
このような塔を持つ興福寺は昔も今も重要な価値を持ち続けている。そしてこれからも価値の変遷は有るだろうがそうあって欲しい。
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