言い伝えは時として現実となる。
日本の中世の公家・武家・寺社の住宅には「会所(かいしょ)」と呼ばれる独立した建物があった。この会所は特に室町時代に発達し、公的な行事より歌会や月見などの私的な行事に使用された。
代表的な会所建築の1つは足利将軍家の御所にあった会所である。
御所と聞くと天皇の邸宅を思い浮かべるかもしれないが、特に位の高い武家が構えた武家屋敷も御所と呼ぶ。
足利将軍家の御所と言えば「花の御所」として有名だが、ここに会所が設けられたのは1429年6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の時である。
しかし、現在、花の御所は存在していないから私たちは実物を見る事が出来ない。
ところが飛騨市の山あいのまち神岡町の江馬氏館跡公園には武家館の会所が庭園と共に復元されているから実物を見る事が出来る。
室町時代の会所と庭園が復元されているのは日本でほぼここだけだ。
↑江馬氏館跡公園_会所↑江馬氏館跡公園_会所接客の間
会所から眺める庭園は蒼い芝とその上に配置された大小の石の対比が美しい。
周りに高い建物がない為、飛騨の山々を借景とする雄麗な世界は室町時代と同じ雰囲気を創り出している事であろう。↑江馬氏館跡公園_庭園↑江馬氏館跡公園_会所月見台と庭園
江馬氏は室町時代から戦国時代にかけて高原郷(現飛騨市神岡町・高山市上宝町周辺)を支配していた豪族である。
平経盛(たいらのつねもり)の子である輝経(てるつね)が伊豆国の北条時政(ほうじょうときまさ)に養育された後、飛騨に入ったとされるのが江馬氏の起源とされている。
江馬と言う名は北条氏の重要な所領であった伊豆国の江馬庄から用いられたと考えられている。
江馬氏館周辺には江馬と言う地名はないからこの説は間違ってはいなだろう。
伊豆の地から離れた飛騨の地に居を構えた江馬氏であるが16世紀に高山市域に本拠を持つ三木氏(みつぎし)との争いに敗れ没落してしまう。
戦国時代の荒波に押され消滅してしまった江馬氏であるが、その全盛期の頃に建てた武家館は花の御所を模倣したと想定される。
この「模倣」と言う言葉は江馬氏館の存在意義を明確にしている気がする。↑江馬氏館跡公園_西堀
江馬氏が花の御所を模倣出来たのはそれだけ足利将軍家と近い位置にあったと考えられる。実際に御所の中に入らなければ模倣する事は出来ないからだ。↑江馬氏館跡公園_主門
また、模倣はさせる側もする側もお互いにメリットがある。
室町幕府は模倣させる事により、地方にその威厳を浸透させる事が出来る。模倣する江馬氏は幕府との繋がりを示す事が出来る。これは権威となりこの地域を治める事に役立つ。
さて、会所の庭園と反対側からは神岡町を見守る大洞山(おおぼらやま)を眺める事が出来る。↑大洞山(右手前の山)
大洞山には昔から天狗が住んでいると信じられていた。
地元ではこんな言い伝えが残っている。
天狗は村の男の子を捕まえて山に帰り、修業をさせ天狗の跡取りにしようとした。しばらくしてその子は、必ず山に帰ると言う約束を天狗と交わして家族のいる家に戻った。しかし、子供の家族は、子供を返さないために大黒柱に縛り付けてしまった。ところが、子供は自分で縄をほどいて山に帰ったと言う。
一方で実話としてこんな話もあるようだ。
1925年(大正13年)大洞山の麓にある大津神社の池に落ちて行方不明になった男の子を大洞山に薪を拾いに行った人が山中で発見した。この子が発見された場所はとても子供が数時間で行けるような場所ではなかった。この時、人々は天狗様の仕業だと噂したとの事である。
言い伝えが言い伝えに止まらない所に興味を注がれる。
その様な視点から見た場合、江馬氏館も言い伝えが現実となったと言える。
現在の江馬氏館と庭園がある場所はかつて水田で覆われていたが水田から庭園の巨石が顔を出していたそうだ。地元ではこれらを「五ヶ石(ごかいし)あるいは「御花石(ごかいし)」と呼び、江馬の殿様の館の庭石であると伝えられていた。
1960年代半ば、土地改良に伴う発掘調査で庭園と建物の跡が発見される事でこれが現実となった。
耕作の邪魔ながらも廃棄しなかったのは言い伝えによってこの石が普通の石ではないと信じられていたからに違いない。↑江馬氏館跡公園_庭園
兎角、昔話や言い伝えなどの不思議な話は作り話として片付けられてしまう。
しかし、そこには真実が潜んでいる可能性が高いと言う事だ。
現在、江馬氏館は神岡町にとって貴重な存在となっている。
言い伝えに限らず、人の話に耳を傾ける事の大切さを物語っているのではないだろうか。
特に仕事場においては人の話しを遮らず最後まで聞く事により真実が見えてくるだろう。
江馬氏館に訪れた際はそんな事も考えながら室町時代の遺構を散策して頂きたい。