緑の山々の合間を縫うように通り抜ける木曽路。
中山道(なかせんどう)のうち岐阜県南部から長野県に又がる区間が木曽路と呼ばれています。
木曽路と言うと妻籠宿(つまごじゅく)、馬籠宿(まごめじゅく)、あるいは奈良井宿(ならいじゅく)など当時の風情を残した街並みを思い浮かべる人も多くいるのではないでしょうか?
しかし、宮ノ越宿(みやのこしじゅく)は現存する客殿を有する本陣跡などがありますが、それ以外の異なる対象に目を向けられる人の方が多いでしょう。↑宮ノ越宿本陣↑宮ノ越宿本陣_客殿
その対象とは何なのでしょう?
ヒントは宮ノ越のある木曽町日義(きそまちひよし)と言う地名に隠されています。
現在は木曽町に併合されてしまいましたがこの地はかつて日義村と呼ばれていました。
平家物語に朝日将軍と呼ばれる武将が登場します。
朝日将軍とは、源平合戦の一場面を大きく彩った木曽義仲(きそよしなか)の名で知られる源義仲(みなもとのよしなか)の事です。
この義仲が平家討伐の旗挙げを行なった地である事から朝日の「日」と義仲の「義」の文字を取り日義となったわけです。
そうです、宮ノ越宿は木曽義仲ゆかりの地なのです。
義仲の前半生に関する史料はほとんど残されていないようですが、平家物語や源平盛衰記などによれば義仲は武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)で生まれた後、父親が身内同士の対立により討たれてしまった為、木曽の地、宮ノ越へ逃れ幼少期を過したと伝えられています。
その為、宮ノ越には義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介する義仲館(よしなかやかた)や義仲一族の菩提寺である徳音寺(とくおんじ)などの施設・史跡が点在しています。
↑義仲館↑徳音寺
義仲館の入り口にある義仲像の隣には美しい女性の武将が立っています。
義仲、女性と聞いてすぐに分かった人もいますよね。
そうです。巴御前(ともえごぜん)です!↑義仲館_義仲、巴御前の像
巴御前は木曽で共に育った義仲の幼馴染であり、後に妾になったとされています。義仲の挙兵後は共に従軍し、数々の戦に参戦し、多くの武勇伝を残しています。
その強さは「一人当千の兵者」と称され、義仲が京を追われ惨敗した宇治川の戦いでは最後の7騎になった時、左右から襲いかかってきた敵兵を左右の脇に挟みこんで絞め、ねじ切ってしまったそうです。
ちょっと身を引いてしまう逸話ですね(^^;
日本で女武将と言えば巴御前を真っ先に挙げる人は多くいるでしょう。
このような巴御前ですが巴御前が登場するのは「平家物語」「源平盛衰記」のみであり出生に関しても定かではありません。
それ故、宮ノ越にある巴御前の出世に関する話も史実ではなく伝説として残されています。
宮ノ越の街道に並行して流れる木曽川に巴渕と呼ばれる川渕があります。
↑巴渕
巴御前はこの渕に住む龍神が化身となって義仲の養父・中原兼遠(なかはらのかねとお)の娘として生まれ生涯義仲を守り続けたと言うものです。
巴御前の正体が龍ならば強いのも頷けますね(^^)
ところで宇治川の戦いの後、義仲は粟津の戦い(あわづのたたかい)で最後を遂げます。しかし、ここに巴御前はいませんでした。
義仲は宇治川の戦いの後、説得して巴御前を戦場から去らせたのです。
その後、巴御前がどうなったかについては様々な説があるのですが、その内の一つに木曽へ逃れ義仲の菩提を弔って暮らしたと言うものがあります。
それを裏付けるものとして、本物かどうは定かではありませんが徳音寺には義仲の墓と共に巴御前の墓が祀られています。↑徳音寺_義仲の墓(中央)、巴御前の墓(左)
この伝説、どこまでが本当なんでしょうかね?
と、これで巴御前の伝説の話は終わりとしたいところですが、実は巴御前は現在も木曽の地で伝説を作ろうとしているのです
どう言う事でしょう?
宮ノ越宿のある同じ木曽町内に東京大学木曽観測所があります。
この観測所には105cmのレンズと鏡を組み合わせた反射屈折光学系の望遠鏡の一形式であるシュミット式望遠鏡が設置されています。
この望遠鏡に搭載されている広視野CMOSカメラに付けられた名前がTomo-e Gozen Cameraなのです!
そしてこのTomo-e Gozen Cameraを用いて広視野かつ高頻度の可視光サーベイ観測するプロジェクトにはTomo-e Gozen projectと命名されているのです!
名付けた理由は、巴御前が「日本史上最強女子であり、しかも90歳を超える長命だった」から。
巴御前は龍の次は超高性能カメラになったと言うことですね(^^)
強烈に強いものは時代を超えて名を残し続ける。それは力に限らず、個性や精神面と言った強さにも同じ事が言えるでしょう
Tomo-e Gozen Cameraはきっと大発見をして未来に伝説として名を残す事になるでしょう!