古くから牛と関わりのある町を見守る津山城

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中国地方の中央に覆い被さるように連なる中国山地。

その中国山地にあって中心都市とも言える津山市(岡山県)の名物はホルモン焼きうどん

ホルモン焼きうどんは2011年のB-1グランプリでシルバーグランプリ(第2位)を受賞しており、津山市内のほとんどの鉄板焼店はホルモン焼きうどんを提供しているそうです。

なぜホルモン焼きなのでしょうか?

それは岡山県北部は古くから畜産業が盛んだった事に起因しています。

その古さは筋金入りで、津山では705年に牛馬市場が開市されたと記録されているそうです。その後も津山は山陰と山陽を結ぶ流通の拠点と言う地の利を生かして牛馬の産地としての役割を担って来たと言うわけです。

ホルモン焼きうどんのルーツは奈良時代にあると言うことですね(^^)

日本では明治以前は牛肉を食べなかったと言うのがほとんどの日本人が持っている認識でしょう。

ところが、津山と滋賀県の彦根だけは「養生喰い」と称して牛肉が食べられていました。

「養生喰い」とは「健康のために食べる」「薬として食べる」 と言う事を意味します。

開国後に日本へ入り神戸に居留した外国人は津山の養生喰いのおかげで牛肉の入手に困らなかったそうです。

このように牛と深い関わりを持ちながら歴史を育んで来た津山の地にかつて日本三大平山城の1つに数えられる津山城が空に向かって高く屹立していました。

現在その城跡は桜の名所として知られる鶴山公園(かくさんこうえん)として津山市民の憩いの場になっています。「鶴山」は津山城の別称である鶴山城から来ています。↑津山城跡

園内には荘厳な石垣が当時の面影を残しており、一二三段(ひふみだん)と呼ばれる3段の石垣の上には2005年に復元された備中櫓(びっちゅうやぐら)が津山の街を見守っています。↑津山城跡_一二三段と備中櫓↑津山城跡_備中櫓↑津山城跡_備中櫓(内部)

今はこの備中櫓だけが津山城唯一の建造物となっていますがかつては外郭を含めて広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並ぶ優美で巨大な城でした。↑明治初頭の津山城(出典:ウィキペディア)

もし残っていれば間違いなく国宝、及び世界遺産に登録されていた事でしょう。

当時のままの姿を見られないのは非常に残念な事ですね。↑津山城跡_天守台跡↑天守台跡からの眺望

1603年、織田信長の小姓であり本能寺の変で討死した森蘭丸(もりらんまる)の弟である森忠政(もりただまさ)は関ケ原の合戦の軍功により徳川幕府から津山18万6千石を与えられ入封しました。

忠政は翌年の1604年から城造りを始めます。そして13年の歳月をかけて1616年に完成しました。↑津山城跡_備中櫓

その後、森家4代・松平家9代が城主として津山の地を治め、明治の廃藩置県・廃城令によって城は役割を終え、1874年(明治7年)から翌年にかけてすべての建物が取り除かれました。

↑津山城跡

以上が津山城の概略となります。

ところで築城主の森忠政には太刀(たち)にまつわる言い伝えが残されています。

『森忠政が出生地の美濃国(現在の岐阜県南部)で家督を相続し金山城の城主になった頃、城中に夜な夜な妖怪が現れるようになった。忠政が陰陽師に確認したところ、忠政の持つ太刀「鵜の丸」の祟りであることが分かった。忠政は伊勢神宮へ願をかけて奉納した』

と言うものです。

忠政は太刀を奉納した際に「牛玉(ぎゅうぎょく)」と呼ばれる聴き慣れないものも合わせて奉納しています。

何なのか調べてみると

①牛の額に生じるとされる玉状のかたまり。寺院などではこれを宝物とする。

②牛の腹中にできるとされる玉。一切の病魔を除く霊物とされる。

とありました。

こんなものがあるのですね。

忠政は津山の地を治める前から牛に縁があったと言う事なのでしょう。

更に忠政は築城中に久世(岡山県真庭市)に久世牛馬市を創設しているとの事です。

忠政は牛との縁を大切にしていたと言う事ですね。

津山は古くから特産品を牛と定めそれを維持し、現代ではホルモン焼きうどんと言う形にしてそれを提供していると言えます。

同じものでも変化を加える事で新しいものとなり引き継がれて行くと言う事の現れでしょう。

津山に足を運んだ際は津山城跡を散策してお腹が空いたらホルモン焼きうどんを食べましょう!

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