備中国分寺から連想される農具

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備中国分寺

高くそびえる五重塔。人工の建築物であり、尚且つ目立つ建築物でありながら自然の中に溶け込んでいる。

昔の人が意識的にそうしたのか、それとも無意識にそうなったのか?

01 備中国分寺

02 備中国分寺

03 備中国分寺

のどかな田舎の風景と一体化している備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ:岡山県総社市)は奈良時代に聖武天皇(しょうむてんのう)の詔(みことのり:天皇の命令)により諸国に建立された国分寺の一つです。

04 備中国分寺

国分寺とは聖武天皇が仏教による国家鎮護(仏教の力を借りて天災や飢饉から人々そして国を守ること)のため741年(天平13年)に日本各地での建立を命じた寺院の事を言います。

備中国分寺の建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期の宝永年間(1704年-1711年)に再建されたとされており、日照山国分寺(にっしょうざんこくぶんじ)と名を変え、その目前には田園が広がっています。

05 備中国分寺

06 備中国分寺

07 備中国分寺

さて「備中」「田園」と来たら何を連想しますか?

私は備中鍬(びっちゅうぐわ)が浮かんで来ました。

備中鍬とは平鍬に対し刃の先が2本から6本に分かれているものを指します。

なぜ備中鍬と呼ぶのでしょうか?

その理由は備中松山藩の財政難に端を発しているようです。

藩政改革を進めるため幕末期の儒家・陽明学者の山田方谷(やまだほうこく)は備中地方では古くから良質の砂鉄が取れ、鉄器の生産が盛んな事に着目し、鉱山の開拓及び製鉄工場の建設を行い鍬や鋤(すき)などの農具の生産に力を入れさせました。

そして生産された農具を中間手数料のかかる大阪には卸さず江戸へ運び直接卸すことで中間利益を省き高い収益性を確保しました。

備中で生産されたオリジナルの鍬「備中鍬」は大消費地である江戸周辺農村での需要が高く爆発的に販売量を伸ばしたそうです。

これにより備中松山藩の財政難は驚異的なスピードで回復の方向へ向かったと言う事です。

備中鍬は超ヒット商品だったんですね(^^)

ところで鍬と言えば「鍬入れ式」と言う言葉が連想されますね。

鍬入れ式と似たような儀式は日本だけでなく世界中にあるそうですが使用する道具は鍬とは限らないようです。ドイツの高速道路アウトバーンの鍬入れ式の際にヒトラーはシャベルを使ったそうです。

備中→田園→鍬→鍬入れ式

何だか連想ゲームのようになってしまいましたが最後に鍬に関わる諺を一つ。

「使っている鍬は光る」。。。。。いつも使っている鍬は錆びることがないので、いつも光っている。絶えず努力をする人は、自然とそれが表に出るということの例え。

備中地方に訪れた際はこの諺を思い出し自分に磨きをかけて下さいね♪

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