岐阜城で上昇気流に乗った織田信長

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岐阜城

360℃遮蔽物の無い眺めは爽快感を生み出してくれます!

眼下には鵜飼で有名な長良川が街を横切り、

01 岐阜城からの眺め遠くを見渡せば日本アルプスへと向かう山々が連なります。

02 岐阜城からの眺め 標高329mの稲葉山(いなばやま)の山頂に位置する稲葉山城は戦国時代の真っ只中、油商人から美濃国(現在の岐阜県南部)の領主にまで上り詰めた斎藤道三(さいとうどうさん)の居城でした。

道三は嫡子・義龍(よしたつ)に城を譲りますが不仲となり長良川の戦い(1556年)で討ち取られます。

03 長良川↑長良川

その後、義龍は早世したため城は義龍の子・龍興(たつおき)へと継がれました。

この龍興から城を奪取(1567年)したのが道三の娘・濃姫(のうひめ)を正室としていた織田信長です。

信長は9年間この城で過ごし天下統一への道を着々と歩み続けました。

「天下布武(てんかふぶ)」の朱印もこの頃に掲げられています。城下町には「楽市楽座」が設けられ活況を呈するようになりました。

信長の武将・政治家としての才能が開花し始めた頃と言えるでしょう。

天下布武とは戦いを止めて天下泰平の世を創ると言う信長の目標のようなものです。目標を持てばそれを達成させる為に色々な手段を考え目標に近付こうと努力する事になります。信長も天下布武を掲げたからこそ、才能が開花し目標に近づいて行く事が出来たのではないでしょうか。

さて現在、稲葉山城は名を改め岐阜城と呼ばれていますが岐阜と言う地名を命名したのは信長と言われています。

『「岐山」は中国の古代王朝である殷が周へと移り変わる頃に鳳凰が舞い降りた山』

『「曲阜」は中国春秋時代の王朝である魯国の首府が置かれ孔子の生地であり儒学発祥の地とされている』

臨済宗妙心寺派の僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)から「岐山・岐陽・岐阜」の3つを提案された信長は天下取りの意思を込めながら「岐山」「曲阜」の二つを併せ持つ「岐阜」を選んだようです。

また稲葉山も現在では名を改め金華山(きんかざん)と呼ばれています。

04 金華山↑金華山

こちらも信長が命名したと言う説があります。

金華山=金の華が咲く山。

ツブラジイ(どんぐり)が開花すると木全体が金に覆われたように見えます。稲葉山に多く生息するツブラジイが一斉に開花した様子を見た信長が金華山と呼んだのが始まりだとか。

05 金華山に咲くツブラジイの花(ウィキペディアよりダウンロード)

↑金華山に咲くツブラジイの花(ウィキペディアよりダウンロード)

真意は定かではありませんが信長は名前を変える事により何らかの変化をもたらしたかったのかもしれませんね。

ところで金華山は龍が山に向かって一気に駆け上がろうとしている「昇龍形」の龍脈を持つ風水的にはとても素晴らし地勢との事です。

信長が岐阜城を起点に一気に天下統一に向かって突き進む事が出来たのもここに理由があるのかもしれませんね。

06 織田信長の像の背後に金華山と岐阜城

↑織田信長の像の背後に金華山と岐阜城

ちなみに同じように風水的に龍脈の走る城として岡崎城(岡崎市)があります。

ここで生まれて天下人となった徳川家康は信長が天下取りの意思を込めて命名した岐阜の文字を持つ岐阜城は徳川に代わる天下人を出現させ不要な争いを生む城になるかもしれないとして廃城させたと言います。

龍脈の走る城で生まれた家康は同じく龍脈の走る金華山に建つ岐阜と言う名前の城が上昇気運の高まる城だと言う事を直感したのかもしれませんね。

廃城となった岐阜城ですが現在は復興天守が再建され金華山の山頂にその姿を輝かせています。

07 金華山と岐阜城と長良川↑長良川と金華山と岐阜城

また金華山の麓には織田信長居館跡や綺麗な庭園を含む岐阜公園が整備され山頂へ登るロープウェーの発着地点となっています。

08 金華山ロープウェー

↑金華山ロープウェー

09 岐阜公園(織田信長居館跡)

10 岐阜公園(織田信長居館跡)

↑岐阜公園(織田信長居館跡)

11 岐阜公園(庭園)

↑岐阜公園(庭園)

岐阜に訪れた際は岐阜城へ向かうロープウェーの上昇と共に運気も上昇させましょう!

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