複雑な歴史と複雑な社殿を持つ大瀧神社・岡太神社

このエントリーをはてなブックマークに追加

高い木々と苔に覆われた境内。

静けさと厳かな雰囲気に包まれている神社。

福井県越前市大滝町に鎮座するこの神社は全国的にも珍しく二つの神社の社殿が共有され二つの名前が併記されています。

その二つの神社とは「大瀧神社・岡太神社(おおたきじんじゃ・おかもとじんじゃ)」です。

この二つの神社の歴史と建物の特徴を説明しようとしたら複雑な説明となってしまいました(^^;

諦めずに最後まで読んで頂ければ幸いです。

まず、最初に二つの神社の成り立ちから探ってみましょう。

歴史の上では岡太神社の方が古いので、まずは岡太神社からです。

岡太神社は雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の時代(457年〜479年)に創建されたとされています。

約1500年前、大滝町の岡太川上流に美しい1人の女性が現れ、村人に紙漉きの技術を伝えたと言うのがその起源とされています。

女性は後に村人から「川上御前(かわかみごぜん)」と呼ばれるようになりました。その川上御前が祀られているのが岡太神社です。↑川上御前

このような経緯から岡太神社は日本で唯一、和紙の神様・紙祖神(しそじん)が祀られる神社となっています。

また、川上御前の言い伝えはこの地域の伝統産業でもある越前和紙の始まりでもあります。

大正時代には大蔵省印刷局抄紙部(おおくらしょういんさつきょくしょうしぶ)に川上御前の分霊がまつられた為、岡太神社は全国和紙業界の総鎮守と言われるようになりました。

次に大瀧神社です。

大瀧神社の起源は、推古天皇の時代(592~638年)に大伴連大瀧(おおとものむらじおおたき)が勧請(かんじょう:神様の来臨を願うこと)を行ったことが起源とされています。

その後、奈良時代の僧・泰澄(たいちょう)が、719年に川上御前を守護神、国常立尊(くにとこたちのみこと)と伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を主祭神、十一面観音菩薩を本地として大瀧兒大権現(おおたきちごごんげん)を祀る社を創建し、併せて別当寺(べっとうじ:神社を管理するために置かれた寺)として大瀧寺を創建しました。

少しややこしいですね。ここには神仏習合(しんぶつしゅうごう)の思想が反映されています。

神仏習合とは神と仏とを調和させ、同一視する思想で、日本古来の神道と海外から伝わった仏教が同化する宗教現象を指します。

また、本地とは簡単に言うと神様はこの世に仮で表わした姿で、本来の姿である仏・菩薩のことを指します。つまり、ここでは十一面観音菩薩が本当の姿(本地)で大瀧兒大権現が仮の姿と言う事になります。↑十一面観音堂

大瀧寺は中世に入ると境内に七堂伽藍(しちどうがらん:宗派によって異なるが塔・金堂・講堂など仏教寺院の主要な七つの建物をいう)が建ち並び48坊の堂塔、社僧700余名を擁する大寺院へと発展しました。

その後、織田信長の一向一揆攻略の兵火により消失したものの、丹羽長秀(にわながひで)を始めとした歴代の領主による保護を受け復興を果たしました。

しかし、明治になると神仏分離令により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教寺院・仏像等を破棄し、仏教を廃すること)が促された為、大瀧寺は廃され大瀧兒大権現は大瀧神社と名を変え主祭神を国常立尊と伊弉諾尊とする神社となりました。

ところで現在、岡太神社は大瀧神社の摂社(せっしゃ:本社に付属し、その祭神と縁故の深い神を祭った神社)に位置付けられているそうですが、社殿が共有されていると言う事は古くから地元の人達の岡太神社に対する信仰が篤く続いていると言なのでしょう。

以上が二つの神社の歴史となりますが複雑ですね。

大瀧神社・岡太神社の場合、神仏習合に加え二つの神社が社殿を共有していることが余計に話を複雑にしてしまっていますね。

ちなみに、大瀧神社・岡太神社の本殿は両社の共有になっていますが奥の院ではしっかりと別々の社が建立されています。

それでは、続いて両社共有の社殿について紹介したいと思います。

一般的な神社は本殿と拝殿はそれぞれ独立して建てられていますが、大瀧神社・岡太神社は本殿と拝殿とが一体化した複合社殿となっています。

その複合社殿は大変複雑な屋根を持っており、「日本一複雑な屋根」とも言われ、国の重要文化財にも指定されています。

正面からみると分らないのですが、斜め横から眺めるとその特徴が良く分かります。↑社殿(正面)↑社殿(斜め横)

流造(ながれづくり)の本殿の屋根の中央上段には千鳥破風(ちどりはふ)、その下に唐破風(からはふ)が設けられ、延長された庇(ひさし)が切妻造妻入の拝殿の屋根と一体化しており、その拝殿の向拝(こうはい:仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分のこと)にも唐破風が設けられています。

専門用語が多くて良く分りませんよね(^^;

以下に個々に説明したいと思います。こちらも複雑な説明になってしまいますが最後までお読み頂ければ幸いです。

まずは流造からです。

流造:切妻造平入(きりつまづくりひらいり)の前面の屋根を長く延ばしたもの。

と言っても切妻造、平入が分りませんよね。

以下、それぞれの説明です。

切妻造:屋根の最頂部である棟(むね)から地上に向かって二つの傾斜面が山形の形状をした屋根。

言葉だけでは難しいのでウィキペディアのリンクを参照して下さい→切妻造

平入:屋根の棟に対して直角に切り下ろした側を「妻(つま)」、棟と並行する側を「平(ひら)」と言い、平入とは建物の出入口がこの「平」にあるもの。ちなみに出入口が妻側にあるのもの妻入と言う。

これも言葉だけでは難しいですよね。ウィキペディアのリンクを参照して下さい→平入

以上が流造の説明になります。

お分かり頂けたでしょうか?

下記の写真は大瀧神社・岡太神社の社殿を真横から見たものです。左側の建物が流造の本殿、右側が切妻造妻入の拝殿となっています。次に、千鳥破風と唐破風の説明ですが、まずは破風についてです。

破風:切妻造や入母屋造(いりもやつくり)などに出来る妻側の三角形部分の造形。日本の神社建築や城郭建築では破風を屋根装飾として用いている。

切妻造は既に上記で説明しましたので入母屋造の説明について下記に示します。

入母屋造:上部においては切妻造、下部においては寄棟造(前後左右四方向へ勾配をもつ)となる構造の屋根。

こちらもウィキペディアのリンクを参照して下さい→入母屋造

以上が破風の説明になります。

続いて千鳥破風と唐破風の説明を以下に示します。

千鳥破風:切妻造の破風を葺き降ろしの屋根に直接置いたもの。

ウィキペディアのリンクを参照して下さい→千鳥破風

唐破風:頭部に丸みをつけて造形した破風。

ウィキペディアのリンクを参照して下さい→唐破風

以上で用語についての説明が完了です。

前述した「日本一複雑な屋根」の説明と写真を再度下記に添付しますのでもう一度、読み返して見て下さい。最初に読んだ時よりは理解出来るのではないでしょうか。

「流造(ながれづくり)の本殿の屋根の中央上段には千鳥破風(ちどりはふ)、その下に唐破風(からはふ)が設けられ、延長された庇(ひさし)が切妻造妻入の拝殿の屋根と一体化しており、その拝殿の向拝(こうはい:仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分のこと)にも唐破風が設けられています」お分かり頂けたでしょうか?

しかし、なぜこんな複雑な屋根にしたのでしょうね?

その理由は不明ですが複雑な歴史を持つ二つの神社を合体させたからなのかもしれませんね(笑)

今回、複雑な内容を説明するのに、自分自身も色々と調べて出来るだけ理解して頂けるように考えてみました。

複雑な内容を説明すると言う事は自分の知識と伝える技術が向上するのでは、と感じた次第です。

皆さんも機会があれば大瀧神社・岡太神社を訪れて実際の複雑な屋根を見て下さい!

【関連情報】

福井県のお土産情報です。

このエントリーをはてなブックマークに追加