平泉寺白山神社が人に与える過去と現在の印象

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伝承や伝説は時に遠く離れた土地同士で絡み合う事もある。

衣川、北上川、磐井川の三本の川に囲まれた地域・奥州平泉(おうしゅうひらいずみ)は11世紀末から12世紀の約90年間、奥州藤原氏が栄華を極めた土地だ。

その規模は平安京に次ぐ人口を保持し、毛越寺(もうつうじ)や金色堂で有名な中尊寺(ちゅうそんじ)などの仏教色に彩られた大都市だったと言う。

平泉の語源は「この地域に湧き出る豊かな泉から来ている」と言う説や、「仏の教えによる平和な理想社会を求めると言う平和希求から来ている」などの説がある。

後者について、特に仏教と言う単語に焦点を当てて深掘りすると興味深いものが見えて来る。

福井県勝山市に見事な苔に囲まれた静閑な神社がある。

平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)だ。↑平泉寺白山神社_拝殿↑平泉寺白山神社_本社(あいにくの雨だった為、シートで囲われていた)↑平泉寺白山神社_三の宮↑平泉寺白山神社_社務所

平泉寺白山神社は明治時代の神仏分離令により現在は神社と言う位置付けだが、かつては霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院だった。↑納経所跡

もうお気づきであろう。音読みと訓読みの違いはあるが奥州平泉の語源はこの平泉寺から来ていると言うのだ。

と言うのも1573年に成立されたと言う「霊応山平泉寺大縁起」に「秀衡は、寿永2年(1183年)に白山へ銅像2体を奉納し、平泉寺へは釣鐘を寄進した。そして、自分の住む城郭を平泉館と改め、その後、愛孫1人を平泉寺に使わした。これが金台坊である」と言う記述があるそうだ。

秀衡とは奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の事である。

奥州藤原氏が権勢を誇った時代とは異なるが平泉寺は室町時代の最盛期に巨大な宗教都市を築いていた。

東西1.2キロメートル、南北1キロメートルもの範囲に、48社、36堂、6000坊の院坊が建ち並び、その周りを石垣で囲み、砦や堀を備え8,000人近くの増兵を抱えていたと言う。↑中世の石畳↑復元の門と土塀(残念ながら工事中だった)↑南大門跡

その規模を想像するとこの宗教都市はどれほどの活況に満ちていたのだろうかと古のロマンに心魅かれる。

平泉寺がここまでの規模にまで拡大されたと言う事は秀衡の時代もその予兆を見せていたのだろう。其れゆえに平泉と言う名を自分の支配する土地に持ち込んだと思われる。

平泉寺は717年、奈良時代の僧・泰澄(たいちょう)によって開山され、山伏や僧兵が集まる白山信仰の拠点になって行ったと言う。↑泰澄大師廟

白山信仰とは加賀国(現石川県)、越前国(現福井県)、美濃国(現岐阜県)にまたがる白山を中心にして広まった山岳信仰である。

白山は富士山、立山とならび「日本三名山」の1つに数えられ泰澄の登頂により開山された。それ以降、原始的だった修験道が体系化され白山信仰として成立して行った。↑平泉寺白山神社_参道入り口と精進坂↑平泉寺白山神社_一の鳥居↑平泉寺白山神社_参道↑平泉寺白山神社_二の鳥居

この白山信仰の伝播が奥州平泉にも見られるのだ。

今は、跡地しか残っていないが秀衡が建立した無量光院(むりょうこういん)には白山神社が存在していたと言う。あるいは中尊寺境内には今も白山神社が祀られている。

ここまで来ると奥州平泉の語源が平泉寺から来ていると言う確率はかなり高いものではないだろうか。

最後にその確率を更に押し上げる伝説を紹介しよう。

源義経(みなもとのよしつね)は源平合戦で数々の功績を残したものの兄の源頼朝(みなもとのよりとも)から不信を買い追われる身となった。

その時、義経一行が向かった先が奥州平泉である。

義経はかつて秀衡の下で庇護を受けた事があり、それを頼ったのだ。

「義経記(ぎけいき)」によれば、義経一行は奥州平泉へ逃げる途中で平泉寺に立ち寄り、観音堂で一泊したとしている。

この時、義経は「回り道になるが、なんとしても平泉寺を拝みたい」と言って無理やり寄ったそうだ。

これは想像だが、秀衡は義経に平泉寺の事を熱く語ったに違いない。その時の印象が義経の脳裏に強烈に残っていたのだろう。でなければ一刻も早く奥州へ逃れなければならない状況にあるにも関わらずわざわざ回り道をしてまで平泉寺に寄らないだろう。

強く刻まれた印象は生涯心に残り続ける

深い苔に覆われた平泉寺白山神社は宗教都市と言われた頃の姿とは全く異なるだろう。しかしその姿を見た人は、その印象を生涯持ち続けるだろう。

旅の良い思い出として。

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