比叡山延暦寺の焼き討ち。
一向宗への弾圧。
その総本山である石山本願寺への攻撃。
織田信長が天下統一に向けて駆け抜けた時代の遍歴の一部です。
神仏を恐れず無神論者だったとも言われている信長。
そんな説とは裏腹に、信長は福井県越前町の織田(おた)地区にある劔神社(つるぎじんじゃ)の神官の子孫とされています。
↑劔神社
信長の重臣だった柴田勝家(しばたかついえ)の書状にも「殿様、御氏神、粗相仕るべからず」と書いてあるそうです。
応永年間(1394〜1472年)、劔神社の神官の子に「常昌(じょうしょう)」と言う人物がいました。常昌は越前守護であった斯波義教(しばよししげ)にその才能を見いだされ斯波氏に仕えるようになり、その後尾張へ派遣されました。
その際に常昌は故郷の名を取って織田を名乗るようになったと言う事です。
よって、劔神社は織田氏発祥の地とされ境内には織田氏の家紋が散見されます。↑「織田一族発祥地」の碑↑織田氏の家紋が入った灯籠↑織田氏の家紋が入った社殿
劔神社と言う名前も信長のイメージに合っていますよね。
劔神社の歴史は古く、社蔵の梵鐘(国宝)に「劔御子寺鐘 神護景雲四年九月十一日」の銘が刻まれている事から奈良時代の神護景雲4年(770年)には既に存在していたようです。
主祭神を素盞嗚尊(すさのおのみこと)とし、気比大神(けひのおおかみ)、忍熊王(おしくまのみこ)が配祀(はいし:主祭神のほかに、同じ神社の中に他の神を祭ること)されています。
なぜ、気比大神、忍熊王が配祀されているのでしょうか?
その理由を探ると劔神社の名前の由来も見えて来ます。↑劔神社
社伝によれば、御神体となっている剣は第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇子、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が作らせた神剣だそうです。
それを第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇子である忍熊王が、夢枕に立った素盞嗚尊から譲り受け、越国(現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部)の賊徒を討伐し、無事平定したと言う事です。
この神剣は劔神社に祀られました。
その後も忍熊王はこの地を開拓したことから、開拓の祖神として父である仲哀天皇(気比大神)と共に配祀されたそうです。
また、素盞嗚尊と言えばヤマタノオロチ。ヤマタノオロチと言えば草薙剣(くさなぎのつるぎ)ですよね。
劔神社は剣との関わりが非常に深い神社と言えます。
さて、信長に話を戻しましょう。
信長は無類の日本刀好きでした。
戦利品で得たもの、献上されたもの、召し上げたものなど、かなりの数の名刀を収集しました。
特に、備前長船派(びぜんおさふねは)の始祖である刀工「光忠(みつただ)」の製作した日本刀を好み、生涯で20振以上も集めたと言います。
日本刀という用語が広まったのは、海外の文化が流入した幕末以降のことであり、それ以前は単に「刀(かたな)」や「剣(つるぎ・けん)」と呼ばれていました。
つまり、日本刀も剣の一種と言う事です。
また、信長は桶狭間の戦い(1560年)の直前に熱田神宮(名古屋市)に戦勝を祈願しています。
熱田神宮には三種の神器の1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祀られています。
偶然か必然か、ここでも信長と剣が関わっています。
信長が剣と縁が濃いのはご先祖様が劔神社の神官だったからなのかもしれませんね(笑)↑織田町の街角に立つ織田信長の像
最後に剣の使い方について話をしたいと思います。
「諸刃の剣(もろはのつるぎ)」
両辺に刃のついた剣は、相手を切ろうとして振り上げると、自分をも傷つける恐れのあることから、一方では非常に役に立つが、他方では大きな害を与える危険もあるものの例えとして使う言葉です。
また、信長が日本刀を収集した理由は日本刀には武器という道具以外に美術工芸品と言う側面があるからです。
そして、その美術工芸品と言う側面は現代においても高い価値を保ち続けています。
GPS、インターネット、あるいはMRIなどはもともと軍事利用を目的として開発された技術ですが今は平和利用されています。
劔神社に訪れた際は、世界中の武器が全て平和利用される事を祈願しましょう。
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