イギリスの地方都市バロー・イン・ファーネスと三笠山との関係

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『天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも』

現代風に訳すと「天を仰いではるか遠くを眺めれば、月が昇っている。あの月は奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ」となります。

奈良時代、遣唐使として唐に赴いた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が故郷に想いを馳せて異国の地で眺めた月を故郷の三笠山(みかさやま)の月と重ねて詠んだ歌です。

この歌に出てくる三笠の名を冠する「MIKASA STREET(三笠通り)」がイギリスの地方都市バロー・イン・ファーネス(Barrow-in-Furness)にあります。

↑MIKASA STREET

バロー・イン・ファーネスはピーターラビットの生みの親である絵本作家ヘレン・ビアトリクス・ポターが創作活動を行なったイギリス北西部の湖水地方にほど近い場所にある人口約70,000人の町です。↑湖水地方の風景(コニストン湖)

なぜこの町に「MIKASA STREET」があるのでしょうか?

明治維新により新政府を樹立した日本は西洋列強からの植民地化の危機に脅かされていました。

富国強兵により軍備を増強して来た日本は日清戦争(1894〜1895年)の勝利により遼東半島(りょうとうはんとう)を手に入れましたがそれも束の間、三国干渉により清国に返還する事を余儀なくされました。

その3年後にロシアが遼東半島を租借し、太平洋艦隊を配備します。

ここで日本は改めて脅威が現実のものとなった事を実感しました。

ロシアの艦隊に対抗し得る艦隊が日本にどうしても必要となり、浮上した計画が新型戦艦六艘、装甲巡洋艦六艘を保持すると言う「六・六艦隊構想」です。

さて、バロー・イン・ファーネスへ話を戻しましょう。

バロー・イン・ファーネスはかつて小さな漁村でしたが産業革命により様相を変化させて行きます。

水深の深い水域が陸の近くまで来ていると言う好条件から鉄鉱石の積み出し港となり、更には港と内陸部の鉱山をつなぐ鉄道が開通した為、製鉄所が建設されて行きました。加えて、そこで生産された鋼を利用して造船業も発展していく事となります。

1871年には造船所と製鉄所を統合した「バロー・シップビルディング・カンパニー」が設立されイギリス海軍艦の重要な建造社の一つになりました。この会社は1897年にヴィッカース社によって買収されます。

ここに六・六艦隊構想の話が繋がって来ます。

六・六艦隊構想の中でも特に重要視されたのが主力となる敷島型戦艦の四艘であり、その中でも最強の戦艦が四番艦である三笠でした。

当時の日本の造船技術では三笠の建造は難しくイギリスのヴィッカース社に発注したのです。

三笠の名はもちろん三笠山に由来しています。↑戦艦三笠(出典:ウィキペディア)

かつて造船に従事した従業員の社宅が立ち並ぶ住宅街の通りには建造された船の名が付けられ、その一つに三笠の建造された1900年に「MIKASA STREET」と名付けられたと言う事です。

以上がバロー・イン・ファーネスに三笠の名を冠する通りがある理由となります。

「MIKASA STREET」から1kmほど離れた場所にバロー・イン・ファーネスの造船業の歴史を観る事が出来る「The Dock Museum」があります。

↑The Dock Museum

下記の写真はThe Dock Museumに訪れた際に、ミュージアムの人に三笠の資料は何か有りますか?と尋ねたところ色々と見せて頂いたものの一つです。日本ではあまり知られていないイギリスの地方都市が実は日本と深く関わっていた事に感慨深い気持ちを抱きました。

ところで三笠山は奈良市の春日大社の横にあり古くから神体山として崇敬され、遣唐使は出立に先立ち三笠山の付近で航海の安全を願ったと言う事です。

戦艦三笠は日本海海戦で活躍し日露戦争を勝利へと導いたわけですがそれも三笠山の御加護があったからなのかもしれません。

また、遣唐使は造船技術を唐から持ち帰り遣唐使船の造船技術の向上へと繋げました。それから約1000年後に戦艦三笠はイギリスから造船技術を持ち込み、近代日本の造船業の発展へと繋げました。

三笠と言う名が時空を超えて造船技術を日本にもたらしたと言えるでしょう。

世の中は全く無関係と思える事でも距離や時間を超えて目に見えない形で繋がっているのかもしれませんね。

バロー・イン・ファーネスと言う遠く離れた異国の地がそれを物語っています。

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