日本の陸の玄関口とも言える東京駅。
東京駅と聞いて最初に思い浮かべるのが歴史ある赤煉瓦の丸の内駅舎ではないでしょうか。
そんな事もあり、東京駅と言えば丸の内口について取り上げられる事が多いと思いますが今回は、その反対側に当たる八重洲口(やえすぐち)にスポットを当てて見たいと思います。↑東京駅八重洲口
八重洲は、広義では東京駅の東側一帯を指す地域名。現在の行政地名としては八重洲一丁目と八重洲二丁目が設置されています。↑八重洲通り
現在は東京駅の西が丸の内、東が八重洲とはっきり分かれていますが、これは1954年(昭和29年)以降の事で「八重洲」はもともと「東京駅の西側」の「丸の内」に含まれる地域にあった地名でした。
東京駅の西が丸の内、東が八重洲と言うのは意外に歴史が浅かったんですね。
以下、この記事内では東京駅の西が丸の内、東が八重洲と言う事で話を進めさせて頂きます。
江戸時代の地図を見ると武家屋敷が整然と並ぶ丸の内と比べて八重洲は土地割が細かく、町人の町だった事が分かります。
この事が現在の八重洲の街造りにも影響しています。
それは地下街の発達です。
八重洲地下街は全国2位の延面積を持つ巨大なショッピングエリアとなっています(1位は大阪の「クリスタ長堀」)。↑八重洲地下街
土地割が細かく地権者が多い八重洲口周辺は、地上ではなく、公共道路の下の地下が開発の対象になったのです。
では江戸時代にはどのような町人が住んでいたのでしょうか?
江戸時代の町名からそれは分かります。
と言うのも江戸時代は、同じ職業の人々が同じ場所に集まって、住まいや店を構えていた為、それらの職や商売の名が町名に用いられていたからです。
以下がその主なものとなります。
・元大工町(八重洲一丁目):大工が多く住んでいた。
・桶町(八重洲二丁目):桶職人が住んでいた。
・檜物町(八重洲一丁目):徳川家康の江戸入府の際に浜松の檜物(ひもの:ひのきの薄板を円形に曲げて作った器)の大工棟梁がこの地を拝領したことから。
・南鍛冶町(八重洲二丁目):鍛冶の国役を務める人々の集住地だった。
・北紺屋町(八重洲二丁目):染物の国役を務める人々の集住地だった。
・呉服町(八重洲一丁目):呉服店が多かった。↑八重洲
ところで、職業以外の由来を持つ町名も存在しました。
五郎兵衛町(八重洲二丁目)です。これは当初の名主(なぬし:江戸時代の町役人)が中野五郎兵衛と言う人物だった為です。
そしてもう一つ、人物の名が由来となっている町名を紹介しましょう。
「八重洲」です!
オランダのデルフト市生まれの朱印船貿易家であるヤン・ヨーステンはロッテルダムの東方貿易会社が1598年に東洋貿易振興のため派遣した船隊中の一隻、リーフデ号に乗り込みます。
しかし、マゼラン海峡を経て太平洋横断中に遭難。
1600年豊後臼杵湾(ぶんごうすきわん:大分県)の佐志生 (さしう) に漂着すると言う事態に遭遇します。
生存者はヤン・ヨーステン、船長クワケルナック,航海長ウィリアス・アダムズら 24人でした。
ヤン・ヨーステンは徳川家康の招きで江戸に出て、ウィリアス・アダムズとともに家康の外交・貿易の顧問となり、世界情勢の説明などにあたる事となりました。
ちなみに、ウィリアス・アダムスは後に三浦按針としても知られているイギリス人です。
さて、八重洲の地名についてです。
ヤン・ヨーステンは家康から屋敷を与えられました。
ヤン・ヨーステンは「ヤンヨウス」「ヤヨウス」等と呼ばれ「耶揚子(耶楊子)」などの漢字があてられたことから屋敷周辺は「やよす」と呼ばれるようになりました。
これが訛って「八重洲」となったと言うわけです。
現在、八重洲の街では「ヤン・ヨーステン記念像」「ヤン・ヨーステン記念碑」を見る事が出来ます。↑八重洲地下街に設置されている「ヤン・ヨーステン記念像」↑八重洲通りの中央分離帯に設置されている「ヤン・ヨーステン記念碑」
自分の名前が地名の由来となったヤン・ヨーステンは現在の八重洲の発展ぶりをみて驚いているのではないでしょうか。
八重洲に足を運んだ際は是非、ヤン・ヨーステンの記念象・記念碑を探して見てください!