空の蒼と共鳴するように蒼く潤沢な水を湛える広い川。
河口付近で長良川と揖斐川は合流し豊かな景観を創り出しています。↑揖斐川
この地点には伊勢国の入り口とも称されていた渡船場「七里の渡し(しちりのわたし)」がありました。
↑七里の渡し跡
名前の由来は宮宿(愛知県名古屋市熱田区)と桑名宿(三重県桑名市)の間に設けられていた東海道で唯一の海上路が約7里(27km)あった事に起因しています。
かつての旅人はこの七里の渡しを通過する時、水面に浮かぶように立つ櫓を必ず目にしたとか。↑七里の渡し近くの北大手橋に嵌め込まれた歌川広重「東海道五十三次・桑名 七里渡口」のパネル
その櫓とは桑名城にあった51の櫓の1つ蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)です。
蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍のことだそうです。龍は水を司る聖獣である事から航海の守護神として建てられたようです。
現在、揖斐川への水門管理所の外観が蟠龍櫓として復元され当時を偲ぶ雰囲気を漂わせています。
粋な計らいですね。
↑蟠龍櫓
蟠竜櫓を北の端に据えた桑名城は揖斐川の水を利用した水城でした。
桑名城跡は現在、九華公園として整備され公園の近辺も含め遺構を見ることが出来ます。
↑桑名城跡(九華公園)↑桑名城跡(九華公園)_天守台跡↑七里の渡し近くに残る当時の石垣
「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」
唐の頭とは中国から渡来してきた「ヤク」の尾毛を飾りに使った兜を指し、本多平八とは12歳の初陣以来、徳川家康の元で生涯50余度の戦に参加し一度たりとも手傷を負わなかったという闘いの達人「本多忠勝(ほんだただかつ)」を指します。
戦国時代最強とも言える忠勝は天下三名槍の一つに数えられる槍「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用していました。
穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)の体が二つに切れたことからその名がついたと伝えられています。
戦場で蜻蛉切を巧みに扱う天才的武人に出くわした敵兵はさぞかし震え上がった事でしょう。↑九華公園の本多忠勝像
そのような忠勝は関ヶ原の戦い(1600年)で勝利した家康から桑名藩10万石を与えられました。そこに築城したのが桑名城です(1601年)。
忠勝は、嫡男・忠政(ただまさ)に家督を譲って隠居し、築城から約10年後の1610年に桑名の土地で永遠の眠りにつきました。
乱世の時代に忠勝が使った槍、あるいは刀は戦国に生きる武士にとって最も重要な武器です。
桑名には室町時代から数代続く村正(むらまさ)と呼ばれる刀工が活躍していました。村正によって造られた日本刀自体も村正と呼ばれています。
村正は斬味凄絶無比と名高く多くの武将に愛用さました。蜻蛉切もまた村正の流派を引き継ぐ者が製作したとされています。
ところでこの村正には家康が村正を妖刀として近づけなかったと言う妖刀伝説が残されています。
その理由は「家康の父・松平広忠(まつだいらひろただ)は村正の脇差を持った刺客に襲われた」「家康の祖父である松平清康(まつだいらきよやす)は村正の刀で殺された」「家康の嫡男・信康(のぶやす)の切腹の際に介錯に使われた刀が村正だった」「家康自身も村正の刀で何度も傷を負っている」と言った内容から来ています。
しかし、人気のあった村正は所持率が高くなるのは当然です。よって上記の理由が江戸時代を通じて妖刀伝説として流布されたと見られています。
実際、家康が亡くなった後に形見分けされた品々の中には村正の刀もあったという記録が残っているそうです。
しかし、その一方で家康と乱世を過ごした忠勝には以下の逸話が残されています。
『忠勝が死ぬ数日前、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまった。忠勝は「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな。」と呟き、その言葉通りになった』
村正の末流は桑名城三の丸西隣の江戸町に居住して小刀や剃刀などを製造していたとも言われています。↑桑名城趾_三の丸跡
家康の重臣だった忠勝が村正末流の作のと思われる小刀で死期を感じ取ったと言うのはなんとなく妖刀伝説を伝説として扱えない部分ではありますね。
桑名の刀工が造った槍や刀。その槍を用いて闘い続けた本多忠勝が晩年を過ごした桑名城。
厳しい戦国の世を癒すかのように憩いの場へと変わった桑名城跡(九華公園)で平和な現代を実感しましょう。