現在も進化し続けている徳川将軍家の別邸としての「浜離宮恩賜庭園」

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現代の最先端の土木技術で造られた超高層ビル。

江戸時代の造園技術を駆使して造られた日本庭園。

現在と過去のコントラストが絶妙なバランスを保ち美しい風景を生み出しています。

東京都中央区の浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)です。↑浜離宮恩賜庭園

その特徴は潮入りの回遊式築山泉水庭園(かいゆうしきつきやませんすいていえん)。

東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむことができます。↑浜離宮恩賜庭園_潮入りの池

この一帯は寛永年間(1624年〜1644年)までは葦などが茂った湿原地帯であり、将軍家の鷹場(たかば:鷹狩を行うための鷹を訓練する場所)として利用されていましたが、1654年甲府藩主徳川綱重(とくがわつなしげ)がこの地を拝領し、海を埋め立てて別邸を建てました。

それはやがて甲府藩の下屋敷として使用され始めたため甲府浜屋敷海手屋敷と呼ばれるようになりました。

以上が浜離宮恩賜庭園の起源です。

始まりは甲府藩の下屋敷ですが、その後徳川将軍家の別邸として機能して行くことになります。

その発端は綱重にあると言っていいでしょう。

なぜなら、綱重自身が徳川将軍家に限りなく近い立場にあったからです。

綱重は甲府藩主であると共に甲府徳川家の家祖でもあるのです。

一部の人は「甲府徳川家?」「徳川の名を称することを認められていたのは尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家の御三家ではないの?」と思ったかもしれませんね。

この辺の話を交えながら浜離宮恩賜庭園が徳川将軍家の別邸として機能して行く変遷を辿ってみましょう。

江戸時代初期は尾張紀州、以外に甲府駿河(するが)、館林(たてばやし)も徳川家を名乗っていました。

前述した甲府徳川家の家祖である綱重は江戸幕府3代将軍・徳川家光(いえみつ)の三男です。綱重の子、綱豊(つなとよ)が甲府徳川家2代目なのですが、綱豊は家宣(いえのぶ)と名を改め江戸幕府6代将軍となったため甲州徳川家は2代で廃家となります。

これを契機に甲府浜屋敷は将軍家の別邸となり「浜御殿(はまごてん)」と呼ばれるようになりました。↑浜離宮恩賜庭園

続いて、駿河徳川家です。

こちらは、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の三男・忠長(ただなが)を家祖としていますが、その素行が父の秀忠から疎まれ蟄居を命ぜられます。秀忠の死後には兄である3代将軍・家光によって改易され、最後は幽閉され自刃しました。

よって、駿河徳川家はわずか1代で廃家となっています。↑浜離宮恩賜庭園

最後に館林徳川家です。

館林徳川家は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の四男・徳川綱吉を家祖としています(ややこしいですが、甲府徳川家の家祖である綱重の弟です)。

綱吉は江戸幕府5代将軍となり、綱吉の長男・徳松(とくまつ)も綱吉の世子(せいし)として江戸城西の丸に入るのですが5歳で亡くなったため館林徳川家は2代で廃家しました。

甲府徳川家、駿河徳川家、館林徳川家は共に短い期間で廃家となっているため、あまり世に知られていないと言う事でしょう。

甲府徳川家、駿河徳川家、館林徳川家の廃家後は水戸家が格上げされ、水戸徳川家が誕生しました。

これ以降、尾張・紀伊・水戸の3つの徳川家を御三家と呼ぶことが定着したようです。

さて浜御殿と呼ばれるようになって以降、徳川将軍家の別邸として機能するようになった浜離宮恩賜庭園は歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行われて行きます。↑浜離宮恩賜庭園_6代将軍・徳川家宣が庭園を大改修したときに植えられたと言われる松(三百年の松)↑浜離宮恩賜庭園_6代将軍・徳川家宣の時代に建てられた「中島の御茶屋(1983年復元)」

特に御三家の一つ紀州徳川家から将軍になった8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)の時代には薬園、製糖所、鍛冶小屋などが設置されています。

薬園では200種を超える薬草が栽培され、製糖所では琉球から取り寄せたサトウキビの栽培・砂糖の試作などが行われるなど吉宗が行った享保の改革の下支えとなる殖産興業の試験場として位置付けられました。

そして、11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の時代にほぼ現在の姿の庭園になったと言うことです。↑浜離宮恩賜庭園_6代将軍・徳川家宣の時代に建てられた「松の御茶屋(2010年復元)」↑浜離宮恩賜庭園_6代将軍・徳川家宣の時代に建てられた「燕の御茶屋(2015年復元)」↑浜離宮恩賜庭園_6代将軍・徳川家宣の時代に建てられた「鷹の御茶屋(2018年復元)」

徳川将軍家の別邸として機能して来た浜離宮恩賜庭園ですが、明治維新によって幕府が崩壊した後は皇室の離宮となり、名称を「浜離宮(はまりきゅう)」と変えました。↑浜離宮恩賜庭園(旧浜離宮庭園)入口の碑

その後、太平洋戦争で日本が敗退した年の1945年(昭和20年)にはGHQの要求により東京都に下賜され、翌年の1946年(昭和21年)に都立庭園「浜離宮恩賜庭園」として開園し、現代に至っています。↑浜離宮恩賜庭園_大手門↑浜離宮恩賜庭園

ところで、浜離宮恩賜庭園は11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の時代にほぼ現在の姿の庭園になったと前述しましたが、借景を含めるとその景観美は今もなお進化し続けていると言えます。

借景とは日本庭園において、庭外の風景を景観として利用すること。

林立する汐留(しおどめ)周辺の高層ビル群が借景となり、江戸時代にはなかった風景を創出しています。↑浜離宮恩賜庭園

汐留は江戸時代以前、海辺の湿地帯でしたが、江戸幕府初代将軍・徳川家康が埋立工事の実施を発令し、3代将軍・家光の代に至るまで続いた「天下普請」により完成した埋立地です。

温故知新

故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る。

芸術でも社会的活動でも、過去の蓄積に基づいて、新しいものが作られます。

家康は、借景を含める事で新しい徳川将軍家の別邸「浜離宮恩賜庭園」へと生まれ変わることを予言していたのかも?

浜離宮恩賜庭園を訪れた際はそんな視点で散策してみると新しい発見があるかもしれません。

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