謎の物体が眠る諏訪湖の湖畔に建てられた浮城

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高島城

かつて諏訪湖半に面していた高島城(長野県諏訪市)。その姿が湖面に浮かぶように見えたことから浮城とも呼ばれている。

高島城は松江城(島根県松江市)、膳所城(滋賀県大津市)と並んで日本三大湖城の一つとされている。しかしながら現在は住宅街の中に埋もれてしまい当時と同じ景観が見れないのが残念である。

高島城主・諏訪頼忠(すわよりただ)は徳川家康に敵対していたが降伏して諏訪郡の本領を安堵された。その後、天正18年(1590年)、頼忠は豊臣秀吉の命により関東転封となった徳川家康に従って武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)へ移った。

代わりに秀吉の家臣・日根野織部正高吉(ひねのおりべのかみたかよし)が諏訪領主とななり、慶長3年(1598年)、現在の位置に城を完成させた。

慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦い(慶長5年(1600年))で徳川軍に属した諏訪頼水(すわよりみず:頼忠の子)は家康の恩恵により旧領の諏訪に帰り藩主となった。

以降、10代藩主忠礼(ただあや)に至るまでの270年間、諏訪氏と共に高島城は諏訪湖を見続けて来た。

さて、高島城と切っても切れない関係にある諏訪湖に注目したい。

昭和62年(1987年)に国土地理院は水中ソナーを使って湖底の地形を調査した。そして発見されたものは一辺が25メートルもある菱形の物体だった!この物体、菱形の頂点が東西南北を指しているとのことである。自然に出来たものにしてはあまりにも偶然すぎるのではないか?

ところで、そもそも、なぜ湖底の調査を実施したのか?

それは武田信玄が残した遺言伝説に端を発している。信玄は死に際して「自分の死を3年間秘密にせよ。遺骸は甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ。」と遺言したという。武田氏の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」にも同様の記述があると言うのである。

武田家の家紋は菱形である。その為、水中に眠る菱形の物体は武田信玄の墓である可能性が高いと言う事なのだ!

湖底の調査は昭和63年(1988年)から平成2年(1990年)までの間に5回に及ぶ調査が行われた。その際の調査結果は以下の通り。

菱形部分はくぼ地となっており、その内部には3~4メートルの大きさの穴があることが確認された。その内部には長さ7~80センチの金属と思われる物体が確認された。

更に長さ25センチ、大きさ15センチ大の文字らしきものが書かれた石や、桔梗の紋のお椀が1個発見されているそうだ。

これらの事実をどう受け止めれば良いのだろう?

現在に至ってもこの謎は解明されていない。270年もの間、諏訪湖を見続けて来た諏訪氏の歴代藩主はこの伝説を知っていたのだろうか?

諏訪湖に眠る伝説は科学の進んだ現代でも解明されていない事がまだまだあると言う事の一事例だろう。歴史ファンならずとも武田信玄の水中墓伝説の結末には興味をそそられるのではないだろうか?

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武運を祈る際は諏訪大社へ

 

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