肖像とは特定の人間の外観を表現したものです。
似顔絵を描いた事のある方は経験した事があると思いますが、なかなか本人に似せて描く事が出来ません。人の顔は目・口・鼻等々から成り立っており、これらのパーツは誰も同じです。この形が微妙に違うだけで全く違う顔になってしまいます。
これが3次元、要するに立体の彫刻ともなると更に難しくなります。それが肖像彫刻です。日本最古の肖像彫刻は誰がモデルになっているかご存知でしょうか?
その人は日本への渡海にトライし続けます。5回目の挑戦では失明までしてしまいますが失敗。そして6回目の挑戦・天平勝宝5年(753年)、遂に渡海に成功します。
最初の渡海を試みたのが天平15年(743年)。実に10年の歳月をかけて渡日を果たしました。
その人の名は中国からの帰化僧・鑑真(がんじん)。日本における律宗(りっしゅう=戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派)の開祖です。
この鑑真の肖像彫刻が収蔵されているお寺が鑑真の建立した唐招提寺(とうしょうだいじ:奈良市)です。肖像彫刻は6月6日が鑑真の命日にあたり、その前後3日間が公開日となります。
鑑真の渡海の試みは日本から唐に渡った僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)らが戒律(かいりつ:仏教において守らなければならない道徳規範や規則のこと)を日本へ伝えるよう懇願した事に端を発します。
しかし、5回も失敗して、しかも失明までして、なぜ日本に来る必要があったのでしょうか?それには色々な説が飛び交っているようです。
●栄叡・普照の熱意に押された
●戒律伝授の地として日本に魅力を感じた
●聖徳太子に魅了された(聖徳太子敬慕説)
●唐が日本への警戒を強め、隣国の情勢を探らせるために、鑑真を派遣した(鑑真スパイ説)
等々です。
個人的には聖徳太子敬慕説に興味を引かれました。と言うのもこの説には裏づけがあるからです。
当時、中国の名僧である慧思(えし)には何度も生まれ変わったと言う伝説があり、日本の国王または王子に生まれ変わったと言う伝説も生まれていたそうです。それが聖徳太子であり、慧思に魅了された鑑真は日本への渡海を決心したと言うわけです。
源義経は蝦夷へ逃れて、蒙古に渡ってジンギスカンになったと言う説がありますが、真偽は別にしてこのような説は想像をかき立たせてくれますよね。
どの説が本当なのかは分かりません。ただ言える事は鑑真は仏教に対して情熱を持ち続けたと言う事ではないでしょうか。
何か事を成すには情熱や、やりがいと言ったものは欠かせないものです。鑑真が伝えたかったのは仏教もさることながら、情熱の大切さかも知れませんね。
何かを始めようと思い立った時には唐招提寺に参拝して鑑真の強い意思の力を分けてもらいましょう。
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