普段あまり馴染みのない存在に接した時それは意外性と新しい発見につながります。
今井町(いまいちょう:奈良県橿原市)はそんな存在の一つでしょう。
中世のヨーロッパでは都市経済の拡大と共に町が個々に財力を蓄え、それが発言権の高まりにつながり独自の統治機構を備えた自治都市へと発展しました。これらの町の多くは壁に囲まれた城郭都市として町を形成していました。
自治都市としての機能を無くした現在でもその遺構を残している町が多く存在します。
例えばかつては海賊の町だったフランスのサン・マロやイギリスのヨークの町も自治都市として発展し今も尚その面影を残しています。
↑サン・マロ
↑ヨーク
一方、日本ですが「かつて自治都市と呼ばれた町はあるのか?」と質問されたらピンと来ないのではないでしょうか。ヨーロッパほど馴染みがありません。
しかし、堺(大阪府)と聞けば「ああ、そうか」と思う人も多くいるでしょう。堺は戦国時代に貿易の町として栄え商人達が中心となって運営した自治都市です。
この堺と肩を並べるほど発展した自治都市があります。それが今井町です!
「海の堺」に対し「陸の今井」と並び称されるほど栄えていたそうです。
今井町の成立は戦国時代に一向宗本願寺の僧・今井兵部(いまいひょうぶ)が一向宗の拠点として称念寺(しょうねんじ)を中心に町を形成した事に端を発します。
↑称念寺
この頃、天下布武を目指す織田信長と当時最大規模の宗教武装勢力を誇っていた浄土真宗(一向宗)の石山本願寺は敵対し合っておりこれに呼応した今井町も町を濠で囲み土塁を築き信長に抵抗しました。
そうです!今井町はヨーロッパの自治都市と同じように城塞都市の形態を整えたのです。
その名残は町の随所に見る事が出来ます。
例えば街路は町の端から端まで通り抜けにせず筋違いにしたり、丁字型にの突き当たりにして見通しのできないようにしたりするなどの工夫がなされています。
↑筋違いの街路
↑丁字の突き当り
↑今井町西環濠跡
信長に敵対した石山本願寺はその後和睦を申し入れたため今井町もこれに同調し降伏しました。
この時、信長との調整役として動いた人物の1人が今井宗久(いまいそうきゅう)です。
今井町出身とされる宗久は千宗易(せんのそうえき:千利休の法名)、津田宗及(つだそうきゅう)と並び茶湯の天下三宗匠の1人として数えられ一代で財を築き信長からも重用され屈指の豪商へのし上がった人物です。
信長は今井町に対して赦免伏を与え武装放棄を条件に自治権を認めています。このような優遇措置を得られたのも宗久の計らいによるものかもしれません。
いずれにしても宗久は故郷のために貢献したと言う事ですね。
今井宗久についてもっと知りたい方は火坂雅志さん今歴史小説「覇商の門」がお薦めです。興味のある方は是非どうぞ。
江戸時代に入ると藩札と同じ価値のある独自の紙幣「今井札」が発行を認められ近隣も含め用いられた事からも自治権の継続がなされたことを窺い知ることが出来ます。
さて、風情のある近世以前の町並みが広範囲に渡って残されている町として今井町は日本で最大級の町でしょう。
今井町は現在、重要伝統的建造物群保存地区に認定されていますがその認定を受けるまでに40年近くかかっています。
なぜなのでしょう?
それは外部の制度を取り込むことに対し賛否の声が上がり町内で対立する事になったからだそうです。
町並保存の声が高くなる前から住民自身の手によって自主的に守られて来たことによる自治都市としての誇りから来るものでしよう。
最終的にはヨーロッパはイタリアの自治都市であるボローニャの例をヒントに「住民審議会」という独自な制度を生み出す事によって重要伝統的建造物群保存地区に認定される道を選んだそうです。
議論が対立し合った時は決裂するのではなく両者が歩み寄る事の出来る最適な方法を諦めずに模索し続ける事によって難問も解決出来る事を証明する好事例ではないでしょうか。
外部の制度と自治都市ボローニャを参考にした独自の制度を組み合わせながら町を守り続ける今井町は今も尚、自治都市の誇りを維持していると言えるのでしょう。