もうかなり前の事ですがスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』のDVDを観ました。
ナチスドイツによる大量虐殺が進む第二次世界大戦の最中、ドイツ人のオスカー・シンドラーが自分の経営する軍需工場に必要な労働力という理由でユダヤ人の強制収容所送りを阻止し1,100人以上の命を救ったと言う実話を描いた映画です。
この映画を観た時、人の命がいとも簡単に奪われていく悲しさと、自分の身が危うくなる事を冒してまでユダヤ人の命を守ろうとしたシンドラーの行動に胸が熱くなった事を覚えています。
その後、日本人にもシンドラーと同じ行動をとった人物がいる事を知りました。
杉原千畝(すぎはらちうね)です。
現在、彼の知名度は上がって来ていますが、映画化されると知った時、益々日本中に知れ渡る事になると嬉しく思いました。
2015年12月5日に公開となった俳優の唐沢寿明さんが演ずるその映画『杉原千畝 スギハラチウネ』を観終わった後、同じ日本人だからなのでしょうか『シンドラーのリスト』を観終えた時以上に胸が熱くなりました。
実を言えば映画を原案として書き下ろした小説を読んだ後に映画を観たのですが、にもかかわらず心に響き渡るものは変わりませんでした。それくらい彼が選択した行動には心を打つ要素が含まれていると言う事でしょう。
まだ彼を知らない人もいると思うので以下簡単に紹介しておきます。
1939年(昭和14年)ドイツ軍がポーランドへ侵攻を開始し第二次世界大戦が勃発。同じ年、外交官としてリトアニア第二の都市カナウスに領事館開設を命じられます。
翌年の1940年(昭和15年)7月、ナチスの迫害を受けたユダヤの人々が日本の通過ビザを求めて彼のもとへ集まって来ました。政府の許可を得ようとしたが認められず自らの判断でビザを発給することを決意します。外交官としての将来を捨てる行動を選択したわけです。
外務省からの退去命令により8月29日に領事館閉鎖。9月5日カウナス駅から列車で退去するまで実に2,139枚のビザを発給し約6,000人もの命を救いました。
1947年(昭和22年)、帰国後辞任。日本政府から彼の取った行為は認められないまま長い間この事実は世に知られる事はありませんでした。
しかし、1968年(昭和43年)ビザの発給によって命を救われた人物と28年ぶりに再会した事がきっかけとなりその功績が徐々に知れ渡って行く事になります。
1985年(昭和60年)にはイスラエル政府より日本人として初めて「諸国民の中の正義の人(ヤド・ヴァシェム賞)」を受賞。その後、現在に至っています。
杉原千畝は岐阜県加茂郡八百津町(かもぐん やおつちょう)で生まれ幼少期を過ごしています。
↑山間から見る八百津町
八百津の人達は彼を誇りに思っている事でしょう。
冒頭の写真は八百津町にある杉原千畝の勇気ある功績を讃えて後世に伝える目的で造られた記念公園「人道の丘公園」のモニュメントです。
↑人道の丘公園
このモニュメントはパイプオルガンをイメージしており“世界に平和と光と音楽を”とのメッセージが込められているそうです。
また、公園に隣接してその功績の詳細が展示された「杉原千畝記念館」が建てられています。記念館は「リトアニア」と「八百津」の文化差異を表現した建物だそうです。
更に少し離れた場所に「世界に奏でる平和へのビザ」のモニュメントが建てられています。
これらの施設は八百津町に訪れた人々に平和の大切さを改めて感じさせてくれることでしょう。
映画の中にこんなセリフが出てきます。
「あなたがやったことは、外交官としては最低でしたが、友人としては最高でした」
↑杉原千畝の像
現代に生きる私達はその大多数が会社もしくは何らかの組織に属しています。そして時として苦しい選択に迫られる事もあります。
杉原千畝のような行動を選択出来る人は少ないでしょう。しかし、心の底まで屈してしまう事だけは避けたいものです。