林泉寺に残されている信義に厚い上杉謙信ゆかりの品々

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林泉寺

信頼と言う目に見えない建物を作り上げるには長い時間を要します。

信頼は「信義」つまり約束を守り務めを果たす事の繰り返しによって構築されます。

策略や裏切りが跳梁する戦国時代にあって上杉謙信ほど信義に厚い武将はいないでしょう。

01 上杉謙信の像(春日山城跡)

↑上杉謙信の像(春日山城跡)

海に面する領土を持つ今川氏と北条氏に供給路を断たれて塩不足に陥った武田信玄に対し敵対関係にあった上杉謙信が塩を送ったと言う話に由来することわざ「敵に塩を送る」は有名ですね。

因みに2012年(平成24年)に東京で開催された「IMF(国際通貨基金)世界銀行年次総会」の席でラカルドIMF専務理事が「敵に塩を送る」を事例に「困難な時には、お互いを助け合うことが前進する唯一の道である」と演説したそうです。

「敵に塩を送る」は国際語?になったのかもしれませんね(^^)

川中島の戦いでは計5回、12年に及び戦闘を繰り広げた両者なのですが信玄は死ぬ間際に「困ったことがあれば義に厚い謙信を頼れ」と遺言を残したと言われています。

敵から絶大なる信頼を得ていたと言うことですね。

謙信は熱心な仏教信者であった為、この事が信頼を得る武将となった理由なのかもしれません。

仏教信者であった謙信は居城の春日山城に毘沙門堂を建て毎日のようにお堂に入り読経、祈念していたと言います。

02 春日山城跡↑春日山城跡

また謙信が1574年(天正2年)に上洛した際、高野山に訪れその時に謙信と言う法名が贈られたとも言われています。

ところで高野山は弘法大師(空海)によって開創されましたが弘法大師にまつわることわざ「弘法も筆の誤り」は有名ですよね。

嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に平安時代の三筆の1人弘法大師が平安京の応天門に掲げられる扁額に文字を書いた際に「應」の一画目の点を書き忘れてしまった為(まだれをがんだれにしてしまった為)、掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて点を書き足したという話に由来しています。

扁額に達筆な字を書いたと言う話であれば謙信も達筆であり扁額に字を残しています。

春日山城の山麓に位置する林泉寺(りんせんじ:新潟県上越市)。

謙信によって移築され現存する春日山城唯一の遺構とされる惣門(そうもん)の脇を通過すると壮麗な山門が姿を見せます。

03 林泉寺_惣門

↑惣門

04 林泉寺_林泉寺

↑山門

この山門は江戸末期の地震により焼失され大正時代に再建されたものですがオリジナルは謙信によって建立され、扁額には「春日山(かすがさん)」「第一義(だいいちぎ)」の文字が書かれています。

05 林泉寺_山門_扁額(春日山)

06 林泉寺_山門_扁額(第一義)

この文字こそ謙信直筆の文字です!

但し、これはレプリカで本物は境内にある宝物館に展示されているのでご注意を。

07 林泉寺_宝物殿↑宝物殿

謙信は7歳から14歳の幼少期を林泉寺で過ごし六代住職・天室光育(てんしつこういく)から厳しい薫陶を受けたと言います。これが信義に厚い武将・上杉謙信の礎となったのでしょう。

林泉寺本堂脇へ進むと謙信の墓所があります。

08 林泉寺_本堂↑本堂

09 林泉寺_上杉謙信公墓所↑謙信墓所

謙信が春日山城で没した後、遺骸に漆を塗り甲冑を着せてここへ埋葬したそうです。しかし上杉家は会津→米沢へと転封を繰り返した為、謙信の遺体は最終的に米沢市の「上杉家廟所」に安置されています。

とは言え林泉寺は謙信ゆかりの地であることは間違いありません。

謙信ゆかりの品々が残されている林泉寺に足を運んだ際は「第一義」の文字を眺め信義の大切さを学びましょう!

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