龍が臥しているかのごとく列島の中央を縦断する日本の屋根「日本アルプス」。
標高2000m級の峰が連なる日本アルプスを構成している三つの山脈のうちの一つが「南アルプス」である。
その南アルプスの先端の一部を辿って行くと岡崎市(愛知県)に達する。
岡崎の名前の由来の一説としてこの地形に因んだものがある。
それが『先端の地形が龍に似ていて「いずれが尾か、さき(頭)か?」から「おかさき(岡崎)」になった』と云うものである。
岡崎には龍にまつわる伝説も残されている。
だから岡崎市の市章も岡の文字を模した宝珠を龍の爪が掴んだデザインになっている。
↑岡崎市の市章(岡崎市のホームページより)
岡崎の地形を見ると龍の山脈「南アルプス」の端がその片鱗のように市街地の北東部辺りに小高い丘を形成している。その丘が無なくなる先端の尖端とも言える伊賀川(いががわ)と菅生川(すごうがわ)の合流地点に造られたのが岡崎城である。そしてその先には矢作川(やはぎがわ)が流れ岡崎平野が広がりを見せる。
↑岡崎城(大手門)
↑岡崎城(天守閣)
岡崎城は15世紀前半に土地の豪族であった西郷稠頼(さいごうつぎより)によって築かれた。
その竣成の際にどこからともなく現れた乙女が「われは、この地に久しく住める龍神なり。われを鎮守の神として祀らば、長くこの城を守り、とこしえに繁栄不易なるべし」と告げると城中の井戸の水が天高く吹き上がったと云う伝説が残されている。
岡崎城の別名は龍城(りゅうじょう)もしくは龍ヶ城(たつがしろ)である。名前の由来はここから来ていると思われる。
時代は戦国の世、岡崎城は西郷氏に代わり松平氏の居城となった。
そして1542年(天文11年)一人の男児が岡崎城で生まれる。この時、城の上に黒雲が渦巻き、風を呼んで金鱗の龍が姿を現したと云う。
松平竹千代(まつだいらたけちよ)、後の徳川家康の誕生である。
↑家康の胞衣(えな)が埋められている「胞衣塚」。※胞衣=胎児を包んでいる膜および胎盤・臍帯(せいたい)等の総称
↑「産湯の井戸」。この井戸の水を汲み産湯として利用した。
その後の彼の行く末は日本人なら誰もが知っている通りである。
↑山岡荘八著「徳川家康」全26巻を読めば家康の生涯が分かる。読み応え抜群である。
岡崎城が立っている土地は風水的にも龍脈の走り止まった場所であり地の龍と水の龍が相まみえる場所だそうだ。
ちなみに天守閣の横に家康と彼の家臣であり徳川四天王の一人である本多忠勝(ほんだただかつ)が主祭神の神社が鎮座しているが、この神社の名前は龍城神社(たつきじんじゃ)である。やはり龍の一字が入っている。
↑龍城神社
龍が宿る岡崎城は天下取りの出発地点として相応しい土地であり家康がこの地に誕生し天下取りに成功したのもなるべくしてなったのであろう。
↑徳川家康の像
しかし忘れてはならないことは、簡単に天下取りに成功したわけではなく、運を掴む努力を怠らず運を得るまで耐え忍んだと云うことだ。これら無くして天下は取れなかったであろう。
家康は6歳のとき今川氏の人質として岡崎城を離れた後に桶狭間の戦い(1560年)を機に一旦岡崎城へ戻るもその後は浜松城、江戸城、駿府城へと移っている。
では岡崎に何も残されていないかと言えばそうではない。
家康の名残として外せないものの代表が八丁味噌と三河花火であろう。
八丁味噌の名前の由来は岡崎城から西へ八丁(約870メートル)ほど離れた旧八丁村(現在は岡崎市八帖町)で製造されていることから来ている。
八丁味噌と云う呼称の成立時期ははっきりしていないそうだが八丁味噌の特徴である豆味噌自体は室町時代に誕生していたようである。
保存性の高い八丁味噌は三河武士の兵糧としても愛用され、家康も江戸に本拠を構えてからもわざわざ岡崎から慣れ親しんだ八丁味噌を取り寄せ食していたほどだそうだ。
現在、八丁味噌は普通名詞として定着しているが本当に八丁味噌と言えるものは八帖町にある「合資会社八丁味噌」と「株式会社まるや八丁味噌」の2社で製造されるものだけである。
↑合資会社八丁味噌
↑株式会社まるや八丁味噌
↑味噌蔵
岡崎城に訪れた際は是非八丁味噌の工場にも足を運んで頂きたい。
さて、三河花火である。
家康が天下統一を果たすと長く続いた戦国時代は終わりを告げ泰平の世になる。そうなると鉄砲は無用の長物だ。
徳川幕府は火薬の製造を厳しく制限したが徳川幕府発祥の地と言える三河(現在の愛知県東部)だけは特別に許可された。
その技術が観賞用の花火開発につながり花火作りが盛んになった。これが三河花火の誕生である。
日本の花火の歴史は室町時代まで遡るが江戸時代に入り各地での火薬製造が禁止されていたわけだから現在の花火の起源は岡崎にあり岡崎は花火発祥の地と言えるだろう。
毎年8月初旬に岡崎城の横を流れる菅生川をメイン会場として花火大会が盛大に行われる。
↑岡崎市花火大会(写真提供「岡崎市」)
一気に空に向かって突き進み鮮やかな火花を散らす花火はある意味火を吐き出ながら天に向かって翔ぶ龍と言えるだろう。
家康は岡崎に花火と云う昇り龍を残してくれたのかもしれない。
家康の名残として外せないものの代表として八丁味噌と三河花火を紹介したがやはり最大の名残は岡崎城であろう。
2007年(平成19年)に行われたマンション建設に伴う発掘調査によって岡崎城は江戸城、大坂城(豊臣政権下の)、姫路城(拡張を繰り返した幕末の)に次ぐ日本で4番目の規模の城であったことが判明したそうだ。
地方豪族の小さな城が日本で4番目の大きさにまでなったと云うことはやはり岡崎城は昇り龍が舞う城である。