木のぬくもりを伝えてくれる格子戸は情緒を創り出すアイテムの一つである。
その格子戸を持つ家屋が並ぶ古い町並みは癒しの空間を提供してくれる。
川原町(岐阜市)はかつて長良川(ながらがわ)の水運を利用し重要な湊町として栄えた。
通りを歩けばこの地方の伝統工芸品である岐阜うちわを製造販売している店や洒落た喫茶店が迎えてくれる。
↑岐阜うちわ
その川原町の玄関口とも言える場所に鵜飼(うかい)の観覧船乗り場がある。
長良川は鵜飼で有名な川である。
↑長良川
鵜飼は文字通り鵜を飼いならし鮎を狩る伝統漁法である。
その歴史は古く「日本書記」「古事記」あるいは「万葉集」にも登場する。
鵜飼は中国でも古くから行われており日本の鵜飼は中国に起源を持つのではないかとも言われている。
しかし、もう一つ興味深い説が存在する。
それがペルーから伝わったと云う説である。
まさか地球の裏側から?と思われるかもしれないが無下に否定することも出来ない。
モチェ文化とは南米ペルーで栄えたインカ文明に先行するプレ・インカと呼ばれる高度な文化の一つである。その期間は明確にされていないが紀元前後から紀元700年頃に置かれている。
そのモチェの遺跡で発見された土器に鵜飼の様子が描かれている。ペルーでも鵜飼が行われていた証拠である。
モチェ文化の繁栄した時代は日本書紀や古事記が書かれた時代より少し前である。もし日本の鵜飼がペルーから伝わったならば年代的に一致していると言える。
また、DNA鑑定によるとインカ人と日本人は同じモンゴル系の遺伝子らしい。
更に言語に着目するとペルー及びボリビアで公用語の一つとなっておりインカ帝国の公用語であったとされるケチュア語と日本語の間には文法的、語彙的に共通点が見つかっているそうだ。
如何であろう?
その真意は定かでないが歴史的ロマンを掻き立ててくれる要素にはなり得るはずだ。
さて、長良川鵜飼である。
長良川鵜飼は702年(大宝2年)の各務原郡中里(かがみごうりなかざと)の戸籍に「鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)」とあるのが文献に現れる最初の記述だそうだ。
つまり約1300年の歴史を持つことになる。
このように長きに渡り継承されてきた理由の一つは時の権力者に大切に保護されて来たことにある。
平治の乱(1160年)で敗れた源頼朝は敗走の際に長良川河畔でさまよい鵜飼の長に宿を借りたとされている。頼朝は恩に報いるためにその時に食した鮎鮨(あゆずし)を毎年鎌倉幕府へ献上するように命じたとか。
戦国時代には鵜飼を見学し感動した織田信長が鵜匠(うしょう)の名称を授け鷹匠(たかじょう)と同様の待遇である禄米10俵を給した。
更に大坂夏の陣(1615年)で戦国時代に終止符を打った徳川家康もその帰りに岐阜へ立ち寄り鵜飼を見学し魅せられた。家康もまたその時食した鮎鮨を気に入り幕府への献上を命じたと伝えられている。
明治に入ると宮内省(現宮内庁)の直轄となり(1890年)日本で唯一の皇室御用の鵜飼となった。鵜匠の職名は「宮内庁式部職鵜匠」とされ6名の鵜匠が代々世襲によりその伝統を守り継いでいる。
さて、鵜飼を見るには時間的な制限もある。
実際の鵜飼を見ることの叶わない方は「長良川うかいミュージアム」に足を運んでみたら如何だろうか?川原町の鵜飼の観覧船乗り場から少し離れているが歩いていけない距離ではない。
ここに行けば鵜飼に関する様々なことを知ることが出来るし本物の鵜も間近に見ることが出来る。
ところで信長は鷹匠と同様の待遇で鵜匠の名称を授けたが「鵜」と「鷹」が並ぶことわざがある。
「鵜の目鷹の目」である。
その意味を調べると「ちょっとしたことも見落とすまいと熱心に探す様子や目つきのことを言う。多く、欠点や欠落を探す時の様子に使う」とある。
古くから人々を魅了してきた長良川鵜飼は欠点や欠落を克服しながら今に至っているのであろう。だから1300年もの長きにわたり継承されて来たのではないのだろうか。