「臭水」。。。何と読むのでしょう?
「くそうず」と読みます。「草生水」とも表記され江戸時代に使われていた言葉です。
いったいどんな水なのでしょうか?
「日本書記」には、天智7年(668年)、越国(現在の新潟県)より天智天皇に「燃土と燃水」が近江大津宮に献上されたと言う記録が残っているそうです。
「燃水」から連想出来た人もいるのではないでしょうか。
もうお分かりですね。「石油」の事です。
石油の生産量は殆んど皆無に等しい日本ですが日本書記に出て来るほど古くからその存在は知られていたんですね。
かつては地面に自然と湧き出てくる石油を草の葉などに浸して採取していたそうです。
この事から「草生水」と呼ばれるようになったのでしょうね。
井戸を掘る方式で鍬(くわ)や鶴嘴(つるはし)などの道具を使って油井(ゆせい)を掘るようになったのは江戸時代の初め(1600年)頃からだそうです。
そして明治23年(1890年)に日本初の機械掘りを成功させた場所が出雲崎(新潟県)です。
↑機械掘第一号記念碑
↑出雲崎石油記念館
ところで出雲崎と言う地名はご存知でしょうか?
え?聞いた事ない。
そんな事はないと思いますよ。
では1曲。
あたなを 追って 出雲崎~♪
悲しみの 日本海~♪
(作詞:秋元康、作曲:宇崎竜童)
聞いた事あるでしょ。
そうです。出雲崎は黒人演歌歌手ジェロさんのデビュー曲「海雪」に出て来ます。
↑出雲崎の日本海
出雲崎は「妻入り」の家が海岸線に3.6キロも続いており、その長さは日本一を誇ります。
屋根の棟(大棟)と直角な面を妻(つま)と言います。妻入りとは屋根の形を山折にした際に、妻を正面にして入口(玄関)を設けた家の造りの事を言います。
↑妻入りの家屋(北国街道妻入り会館)
↑妻入りの街並み
高台から見る街並みは風情を感じますね。
江戸時代の出雲崎は幕府直轄の天領地となり、多くの物資を運んだ北前船の寄港地であり、佐渡島からの金銀の荷揚げ地でもあった為、この地方の政治、経済、文化の中心として栄え、越後で一番人口密度が高かったと言う事です。
↑天領出雲崎時代館
この事から、多くの人が居住出来るように間口が狭く、奥行きのある妻入りの家屋が建てられました。
出雲崎の町は環境に合せた事により整った街並みを形成出来たと言う事ですね。時と場合にもよりますが、会社などの組織も周りに合せて適応していく事により調和の取れた組織になる事が出来るのではないでしょうか。
さて、日本でも珍しい街並みをもつ出雲崎ですが、この町出身の有名な和尚様がいます。
その和尚様とは良寛さんです。
良寛さんは宝暦8年(1758年)町の名主橘屋山本家の長男として出雲崎に生まれました。
↑良寛堂(橘屋跡:良寛和尚生誕の地)
↑良寛記念館
↑良寛さんと子供の銅像(良寛記念館)
良寛さんと言えば優しく慈愛に満ちた心で子供達と接し遊んだと言うイメージがありますね。
そして子供の伝統的な遊び道具の一つに紙風船があります。
良寛さんが子供達と紙風船で遊んだのかどうかは分かりませんが、出雲崎は全国シェアの80%以上の紙風船の生産地です。
大正時代から冬場の漁業に変わる収入源として紙風船作りが盛んになったそうです。
石油機械掘り一号井跡、日本一の妻入りの街並み、ジェロさんの「海雪」、良寛和尚、紙風船の生産日本一。
こうして並べて見ると出雲崎は色々な物を持ち合わせています。次は何が出て来るか楽しみな町ですね。