都市伝説は信じる信じないは別にしても興味はそそられますよね。
映画にもなったダン・ブラウン氏の小説「インフェルノ」はダンテのデスマスクを巡って物語が展開されて行きます。
デスマスクとは石膏や蝋で死者の顔の型を取ったものです。
フランスの英雄ナポレオンもデスマスクを残しています。
英雄と言えば日本の歴史にも数多く登場して来ますね。
織田信長もその一人でしょう。
その信長のデスマスクが瀬戸市(愛知県)にある「西山自然歴史博物館」に保管されているそうです。
信長は弥助(やすけ)と名付けた黒人をボディーガードとして従えていました。本能寺の変が起きた時同じく本能寺に宿泊していた弥助によって自害した信長の首が運び出され、それが二条城に滞在していた信長の嫡男・織田信忠(おだのぶただ)の家臣である前田玄以(まえだげんい)の手に渡り、玄以がデスマスクを造らせたということです。
どこまでが真実か分かりませんが英雄には付き物の伝説として捉えれば面白い話ですよね(^^)
さて、信長のデスマスクのある瀬戸市は瀬戸物の町として有名です。
瀬戸周辺で焼物が造られ始めたのは古墳時代にまで遡ります。
鎌倉時代に入ると日本で唯一、人工の釉薬(ゆうやく:陶磁器の表面をおおっているガラス質の部分)が使用された陶器を造る事により瀬戸焼としてその地位を確立しました。
その技法は加藤四郎景正(かとうしろうかげまさ)が宋(中国)から伝えたのが始まりとされ、彼は瀬戸焼の陶祖と言われています。
↑加藤四郎景正が祀られる深川神社(ふかがわじんじゃ)と陶彦社(すえひこしゃ)
戦国時代には織田信長が瀬戸焼の保護政策に乗り出し、この時代に瀬戸焼の一大生産者だったと思われる加藤市左衛門(かとういちざえもん)に彼の居住する地域でのみ瀬戸焼を造る事を認めた朱印状を与えています。
これにより瀬戸焼の生産量が増加して行きました。
さて、ここでデスマスクの話に少しだけ戻らせて頂きます。
なんと、前田玄以がデスマスクを作製させたのが加藤市左衛門だったそうです。
ちなみに西山自然歴史博物館の館長の西山氏は織田信長の孫にあたる秀信の子孫と言う事です。これらの事を合わせるとデスマスクが実物である可能性も高まって来ますね。
ところで陶器と磁器の違いをご存知でしょうか?
陶器とは粘土を原料とし、磁器は陶石と呼ばれる石の粉に粘りを与える粘土を混ぜた物を原料としています。
信長の保護政策により生産量を伸ばして行った瀬戸焼は陶器製品だった為、江戸時代の中頃になると九州肥前の伊万里焼、有田焼などの磁器製品におされ生産量が減ってしまいました。
そこで活躍したのが加藤民吉(かとうたみきち)です。民吉は九州へ渡り磁器の製法を学び瀬戸に戻るとその製法を人々に伝えました。これにより瀬戸は再び「焼き物の町」として復活したのです。
民吉は磁祖として窯神神社(かまがみじんじゃ)に祀られています。
↑窯神神社
↑加藤民吉像
このような歴史の経緯の中で瀬戸が陶磁器の生産地として全国的に有名になった為、陶磁器を表現する際に「瀬戸で造られた物=瀬戸の物」が、いつしか焼き物全般を指す言葉「瀬戸物」として使われるようになった訳です。
シーチキン、ホチキス、セロテープ、キャタピラ、チャッカマン、ボンド、マジックインキ等々固有名詞が普通名詞化して扱われている商品は数多くありますが瀬戸物(せともの)はその最たるものと言って良いでしょう。
とは言え完全に普通名詞となってしまった瀬戸物を今更商標登録出来無ませんのである意味損をしてしまっているかもしれませんね(^^;
しかし、瀬戸焼振興協会では2012年に地域団体商標として「瀬戸焼」を商標登録しています。
ブランド化された瀬戸焼が再び普通名詞化されて瀬戸の街が益々発展すると良いですね。瀬戸焼を保護した英雄・織田信長もそれを望んでいるでしょう。
さて、瀬戸物と言う言葉を生んだ瀬戸の街には瀬戸物に関連した多くの見所が点在しています。
江戸時代後期の尾張藩は陶磁器の流通管理をする御蔵会所(おくらかいしょ)を設けました。現在、御蔵会所のあった場所には陶磁器ショップ、レストラン、ミュージアム、会議室、ホールなどを備える「瀬戸蔵(せとぐら)」と呼ばれる施設が建ち瀬戸焼のランドマークとなっています。
↑瀬戸蔵
↑瀬戸蔵ミュージアム
瀬戸焼の主力生産地だった洞町地区の「窯垣の小径」を散策すれば瀬戸焼を身近に感じる事が出来るでしょう。
↑窯垣の小径
また、毎年9月の第2土・日曜日に開催される「せともの祭」は約50万人の人出で賑わいます。瀬戸物三昧の時間を過ごす事が出来ますよ。
↑せともの祭の様子
瀬戸物と言う言葉はこれからも無くなる事はないでしょう。
瀬戸の街を散策して皆さんの欲しい不滅の一品を見つけ出しましょう!