緑色に染まった水田を囲む山々。
そこに点在する民家。
美しい日本の原風景は忙しい毎日を送る私たち現代人の心を癒してくれます。
岐阜県恵那市岩村町の富田地区は全国の環境問題を専門に研究していた故・京都教育大学の木村春彦名誉教授から「農村景観日本一」と謳われました。
↑岩村町富田地区(農村景観日本一展望所からの眺め)
傾斜した穏やかな岩村盆地の中に、瓦と白壁の昔ながらの農家や土蔵が点在し、溜池などがバランスよく配置されているのがその理由との事です。
↑岩村町富田地区
今はのどかな田園風景が広がる岩村町ですが戦国時代は武田氏と織田氏の勢力争いの接触点だった為、激しい動乱に巻き込また時期があります。
当時、この地域は織田信長が叔母のおつやの方を岩村城の城主である遠山景任(とおやまかげとう)に妻として娶らせた事で織田氏の勢力下に置かれていました。
しかし、景任は後継の無いまま病死してしまいます。
そこで信長は五男の御坊丸(後の織田勝長)を養子として岩村城に送り込みましたがまだ幼かった為、おつやの方が当主の座を引き継ぎ岩村城の女城主となりました。
その岩村城は高取城(奈良県高取町)、備中松山城(岡山県高梁市)と並び日本三大山城の一つに数えられています。
標高717m、高低差188mの峻険な地形の上に築かれた石垣は正に巨大な石の工芸品!
平地に築かれた平城の石垣とは異なる美しさを持ち合わせていると言えます。
↑岩村城跡
さて、女城主となったおつやの方ですが、その後悲惨な道のりを歩みます。
岩村の城下は武田信玄の家臣であり武田二十四将にも数えられる秋山虎繁(あきやまとらしげ(俗に信友とも))に包囲されます。
その一方で要害強固な岩村城はそう簡単に陥ちる城ではありません。
↑岩村城跡
そこで、虎繁はおつやの方との婚姻を条件に開城を迫ると言う奇策に打って出ます。
おつやの方は危機を回避するためにこの要求を受け入れ武田の軍門に下る事となりました。
岩村城がそのような状況に置かれる中、信長は長篠の合戦(1575年)で武田軍を破ります。
勢いに乗った織田軍は武田の勢力下となった岩村城を包囲。数ヶ月かけて岩村城を陥落させました。
信長は虎繁と共に叔母であるおつやの方も逆さ磔にして殺してしまいます。
実の叔母を殺してしまうとは戦国の世とは言え信長の非情な一面が現れたシーンと言えるでしょう。
このような戦国の動乱を経験した岩村城の城下町は現在、重要伝統的建造物群保存地区に指定され情緒ある古い町並みを堪能する事が出来ます。
↑岩村町重要伝統的建造物群保存地区
ところで、この保存地区ですがおつやの方が城主だった頃の城下町ではありません。
おつやの方が城主だった頃の城下町は虎繁によって包囲された際に消滅したとされています。
そして、その場所とは異なった場所に信長の近習であった森蘭丸が計画的に造り上げたものが現在の保存地区とされています。
ではかつての城下町はどうなったのでしょうか?
その場所は農村地帯へ変わりました。
そしてその場所こそが現在農村景観日本一と謳われるようになった富田地区だと言われています。
岩村町には岩村城がきっかけで『田園が広がるのどかな景観』と『古い町並みという情緒ある景観』と言う二つの美しい景観が創られたと言えるでしょう。
↑岩村町富田地区(農村景観日本一展望所からの眺め)
↑岩村町重要伝統的建造物群保存地区
実はこの「景観」と言う言葉は岩村町と深い関わりがあります。
幕末、岩村藩士の子として幼年期を岩村の豊かな自然の中で過ごし、後に東京大学理学部生物学科を経て、大学院へと進み、植物学者・理学博士となった人物がいます。
三好学(みよしまなぶ:1862〜1939年)と言う人物です。
三好博士は明治維新以降日本で急速に工業化が進む中で多くの貴重な自然が人の手により破壊されていく事を危惧し学術上価値のあるものは法律で保護するべきであると訴え天然記念物の概念を日本にもたらしました。
その成果は1919年(大正8年)に公布施工された「史跡及び天然記念物保存法」となって現れます。
↑三好博士像(岩村城登城道沿い)
以上のような実績も踏まえての事でしょう。地理学者の辻村太郎が、1937年に著した「景観地理学講話」の中で三好博士が「景観」という言葉を生み出した人物としてとりあげているそうです。
岩村が農村景観日本一と謳われるようになったのも必然と言えそうですね。
このような視点で見ると世の中の事象は偶然では無く必然的に起こるものなのかもしれません。
岩村町に訪れた際は田園が広がるのどかな景観と古い町並みという情緒ある景観を是非堪能して下さい!